平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

心を換気すること。だから吹っ切れる。

今日は一日中、生憎の雨。
世間は三連休だけれどうちの大学は通常通りに講義日である。半期15コマを確保すべく取られた措置で、文化の日である11月3日も講義日であった。僕としては、月曜日は講義がないためにあまり影響を受けることはなく、ただ明日明後日の講義の準備があるのでいつも月曜日は忙しくしているから研究室に来ることに変わりはないのであった。で、つい今しがた本日の予定を終えたので、久しく放置してあったブログを書こうと思い立ったというわけである。

すっかりお腹もすいているのでさらりと帰ろうかとも思ったが、事務的な仕事に従事し続けていると湧いてくるモヤモヤ感をそのまますんなりと持ち帰るのが憚られたので、こうして書くことにした。「モヤモヤ感を抜く」ということは「ストレスを発散する」こととは少しニュアンスが違って、行き場の失ったモヤモヤが密閉状態の心に蔓延しないように、わずかばかりの抜け道を作っておくという感じである。
 


キッチリ、かっちりと物事を考え続けることは整合性を高めるということ。講義には適度な「脱線」が含まれると言えども、その準備段階においては理路を整然とさせておかなくては話にならない。そして、それ以外の事務的な仕事については純然たる整合性が求められる。朝からそうした内容の仕事ばかりに身を浸していると、脳ミソへの依存が高まった状態に耐えかねて身体がSOSを発する。もっとフワーンとしろよ、脳ミソばっかり使い過ぎやっつーの的反応が身体のあちこちから発せられるようになり、「わかったわかった。書くがな」という風になるのである。

まあ、つまりのところ僕の場合はこうして心のままに書くということによって、自分が自分でいられるというわけである。「自分が自分でいられる」という自己肯定感というかアイデンティティの確認というか、そういった感覚を感じる方法はおそらく人それぞれに違うのだろうが、僕の場合は「書くこと」なのだ。

ということはだ。僕はやはり頭で考えて書いているのではないというわけなんだな。書く以前の僕には、特別に何かを伝えたいわけでもなく、もちろん確固たる意見がある時はあるが今回はそうではないし、むしろ頭の中に何もない状態から書いていくことの方が圧倒的に多い。だからこそ時に書きながらわけがわからなくなることもあるし、オチがつけられないこともある(思い返してみればほとんどオチはない)。書きながらに浮かぶことばをこのようにして羅列していくと、自分でも不思議なくらいにスラスラと出てくる。もちろん出てこないこともあるが、それは脳ミソが中途半端に介入してきている証拠で、不要な自主規制や過剰な演出が施されて読み返したときに嫌気が刺すような文章になって「はい、ボツ」となる。そして、ボツな文章を書いた自分すらもボツな気分になって、「あーうー」とわだかまるのである。

しかし今日はどうやら違う感じである。おそらくこの文章は日の目を見ることになるだろう。なんと言ってもこうして書いている僕が今とても清々しく感じている。モヤモヤ感の抜け道として今日のブログは十分に機能している。それはつまり、今の僕が「僕」であるということだろう。ややこしい上に、自己満足的な言明にここまでつき合わせてしまってすまないと思うが、まあそういうことなのである。

さらに自分のことを掘り下げて書いていくことにすると、最近になってこれまでのどよーんとした気分がどうやら吹っ切れたようなのだ。何から吹っ切れたかというのをうまく説明できることはできないのだが、とにかく吹っ切れた。かつてラガーマンだった自分と大学教員として歩み始めた自分をどうにか架橋できるだけの準備が整ったというかなんというか。ラグビー選手時代に味わったあのチヤホヤ感を身体から拭い去るのにはそれなりの時間がかかるということを学んだし、度重なる怪我が心をも含んだ身体をどれほどまでに蝕み、その結果として失った自信は想像以上に大きかったのだということに今になってようやく気付くことができた。僕は、僕という人間の血であり肉であるラグビーを無意識に否定しようとしていたことに、ようやく気づいたのである。ラグビー選手と今の自分が地続きであるという当たり前に当たり前なことにハッと気づかされて、ホントにホントに心の内奥から楽になった。

何事にも引き下がり後ずさっていた僕は僕ではない。そのことに気づいたことで吹っ切れた。今の僕は「元ラガーマンの大学教員」であることに変わりはないのだけれど、これまでの自分の人生を振り返ればニュアンス的には「大学教員をしている元ラガーマン」の方がしっくりくる。何よりこの怪我だらけ傷だらけの身体がそのことを物語っている。長らくの時間、ラグビーに身を浸してきた身体はそんなすぐに変貌するわけもなく、やはり僕はラガーマンモデルで物事を考え、行動している。現役時代の晩年は常に葛藤を抱えながらの競技生活ではあったが、それがあるから今の僕がある。なんでそんな当たり前のことを失念していたのか、今となってはまったくわからない。

というわけで、またこれからゆっくりと大学教員として、また研究者としての道を歩みながらじっくりと身体が練られていくのだろう。そんなことを期待しつつ、一人前になるまではまあ未熟な教員としてアタフタしていこうと思っている。

さあ帰ろうっと。