平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

髪型キマる的なちょっとしたデキゴト。

伸ばしている髪の毛が当たり前のように伸び放題である。中途半端な長さなのはわかっていながらも何とか格好をつけようとして、毎朝鏡を見ながらあたふたしている。いくらあたふたしたところで、自らがセットした髪型にほとんど納得することはないのだけれど、それでもあたふたするのをやめることはできない。

つかない格好をつけようとあたふたしていると、何日かに
1回は「これくらいやったらまあええやろ」という半ばあきらめ気味の納得感が得られるときもある。その日は玄関の扉を開けて気持ちよく家を出ることができるし、少しオーバーに言えば、これから始まる1日がとても希望に満ち満ちているような気分になる。髪型が決まったかそうでないかでその日一日を過ごす気持ちが晴れやかになったり沈んだりするほど、僕という人間は単純にできている。

髪型にこだわりがあるとかそういう問題が言いたいのではなく、こういう髪型的な、人によっては無関心でさえある小さなデキゴトを積み重ねることって、実は気分よく生きていく上でとても大切なことなんじゃないかなあと思うのである。

たとえば、何気なく道を歩いていて信号の無い横断歩道で立ち止まっていたら
1台の自動車が停車してくれて横断を促してくれたとか、幾度か不定期に足を運んでいる喫茶店でコーヒーを注文後にしばらくして財布を忘れたことに気がついてあわてて「取りに帰ります」と言ったときに「また次回来られたときで構いませんよ」と今まであまりことばを交わしてこなかったにもかかわらず僕のことを覚えてくれていてしかも快く応対してもらったとか。ホントに何気ないことなんだけれども、不意に訪れてどことなく心が温かくなってニンマリとしてしまうようなデキゴトってあるし、こうした小さなデキゴトをどれだけかき集められるかで人生は様変わりするよな、って思う。

いつか研究室で学生と話をしたときに何気なく話したことばをしっかりと覚えてくれていて、その学生が僕の言った内容に取り組んでいることを人づてに聞いたりしたときなんかは、もう何ともいえないくらいにうれしいものだ。話している最中にだんだんエキサイトしてきて、自分が話す話に自分自身がノリ過ぎてしまって、少々難しい内容の話をまくし立てるという癖が僕にはあるので、学生たちが研究室を出て行った後になって「あー、しゃべりすぎた…」ってなることがとても多いのだけれど、そうした話の断片だけでも伝わっていたのかなという手ごたえを感じるととても元気が出るのである。それでもやはりしゃべりすぎるのはちょっと自制しなければ、と思っているが。

たぶん自分自身の生活を見渡せば、心がホッと温かくなるようなちょっとしたデキゴトは至るところにあるんだろう。しかもそんなにくまなく見渡さなくても、そうしたデキゴトは身近なところで見つけてくれるのを待っているんだと思う。頭を使って合理的に探すのではなくて、逆に論理的なスイッチをオフにして意識をふやけさせてしまえば、ホッとするデキゴトは不意に訪れる。

どうしても見つからないと思ってしまうのは、たぶん自らの感性が論理や経済や似非科学でがんじがらめになっているからだろう。空間や時間に杓子定規な分節線を入れまくってしまうと、余剰なゆるやかさはどんどん引き裂かれていく。必要不可欠なものだけが自分の周りを取り囲むことになって息苦しくなる。自らの感性には定期的に水やりを行っていないと、カラカラにふやけてやがてひび割れる…。

そうやって今の自分を見つめなおしてみると、なんだかたくさんのちょっとしたデキゴトに出くわすような気がしてくるから不思議だ。ひとまず今のところは早く髪の毛が伸びて、いつかあたふたしなくなる朝が来るのを心待ちにしてみよう。