平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「わかってるけどできひんねんって」現象学。

スキー実習が終わるまでが秋学期である。なので、それまで頑張らなければと意気込んできたものだから、いざ実習が終わっていつもの日常が取り戻された今はいささか気の抜けたような心持ちである。すぐにでもやるべきことは山積しているし、その気になってあたりを探せば新たなやるべきことも見つかる状態だというのに、どこか腑抜けたようでフワフワと地に足がついていない感じを拭い去れないでいる。そんな状態にあっていいはずもない、ということは頭ではいやというほど理解できていても、如何せんカラダがついてこないのである。

「頭ではわかっていることがすぐにはできない」のはスポーツをやったことがある人はもちろん、身体を使うあれこれに夢中になったことがある人ならば一度は感じたことがある感覚だろう。スキー実習でも少なくない学生が、「わかってんねんけどでけへんねんなー」と呟きながらゲレンデの上であたふたしていた。理屈はわかっていてもそれを自らの身体で実践することは難しい。頭での理解が実践されるに至るまでは、個人差はあるが時間がかかるということである。

こうした現象を哲学的に解釈しようとすれば、それは身体の問題に突き当たる。『精神としての身体 』(市川浩 勁草書房)によれば、身体には大きく二つの層がある。一つは「主体としての身体」であり、それは生きられている身体である。自らの存在とほぼ一致しているこの「主体としての身体」は、日常生活全般において意識されることがほとんどない。スポーツ活動の最中においても意識されることはほぼ皆無である。時間の流れに完全に同調した時の身体であると言ってもいいだろう。遊びや趣味に没頭し過ぎてふと顔を上げれば「こんなに経ってたんや」と驚く経験をしたことがある人なら、まさにそのときに感じていたであろう(「あろう」というのは無意識だからである)時間が消失していたかのような感覚が思い出されるだろう。そのときの感覚そのものが「主体としての身体」である。

もう一つは「客体としての身体」で、これは対象化された身体である。「主体としての身体」は意識化されることはないため、冷静な状態で眺めたり、触れたり、つかんだりすることはできないが、外部から捉えられた「客体としての身体」はそれができる。こうして身体を対象化することにより生まれたのが医学に代表される科学というものであるが、ここで述べる「客体としての身体」は、科学があつかう客観的身体とは異なるものであると市川氏は述べる。その理由は、「科学があつかう身体は、具体的な生のなかでわれわれが出会う私の対象身体や他者の身体から、さまざまの<意味>を捨象することによって成り立っているからである」(同上書、20頁)。まな板の上に乗せられてここが肝臓で腸で膵臓で、上肢で下肢で、というようにまるで機械のようにして理解される身体は、私たちが生きている具体的な世界に立つべき身体とは似て非なるものであり、あくまでも実感的な生の中で捉える対象身体、それが「客体としての身体」である。

「頭では分かっているのに、なかなかできない」という現象は、身体を見つめるこの2つの視点から説明すればある程度は氷解すると思われる。

頭での理解はすなわち「客体としての身体」としての理解である。学生は、先生の説明を聴き、デモンストレーションを見る。言葉を頼りにして「納得」の手前までたどり着き、実際に動いて見せる先生の手本を目で見て「納得」という領域に片足を踏み入れる。この一連の行為で、学生自身が捉えているのはあくまでも先生の身体すなわち他人の身体であり、それは言うまでもなく「主体としての身体」ではなく対象化された「客体としての身体」である。方向転換の際のスキー板に乗る膝の傾き具合を見て、なるほどああいう風にするのかという映像を焼き付けるわけである(「映像」という表現がまさに「客体としての身体」を表している)。このとき学生が見つめる先生の身体は対象化された身体であり、だから「客体としての身体」でしかない。

この時点では、理屈はわかってるし、やろうとする映像(イメージ)もはっきりしている。しかし、それはあくまでも「客体としての身体」においてである。実際的に先生のように滑れるようになるには、「客体としての身体」での理解を「主体としての身体」に転換させなければならない。言葉による理解と焼きつけられた映像を頼りに、外部から眺めることはできず自分という存在と寄り添い自らの内部から捉える「主体としての身体」の動きに変える必要がある。先生が膝を曲げた角度が約90度だったことを理解してはいても、それを自らの膝を動かしながら感覚でどの程度のものなのかをつかまない限りはうまく滑れないのである。

ここでもう少し話を複雑にすると、第三者から見て、先生が曲げていたのと寸分違わぬ程度に膝を曲げられたとしてもうまく滑ることはできない。「膝をこのくらい曲げる」という動きは、身体全体を使うためのきっかけとなり得る動きでしかない。つまりは「客体としての身体」でとらえた動きでしかなく、それをそのまま実践したところで「主体としての身体」で行うことはできないのである(このポイントがどんどん曖昧になりつつあるのが現在のスポーツ教育であると僕は思っているのだが)。

「頭での理解」から「実際的にできる」までにはだから時間がかかるのである。

しかし、この「頭での理解」から「実際的にできる」までの時間には個人差がある。説明を聴いてデモンストレーションを見たあと、ほとんどすぐにできる人もいるし、少しずつ少しずつできる人もいる。すぐにできる人は「客体としての身体」と「主体としての身体」をほぼ同一的に捉えることができるからか、もしくは両者を全く異なるものとして捉えながら「主体としての身体」に絶大なる自信を抱いているからか、そのあたりは今の時点では何とも言えない。少しずつ少しずつできていく人は、速度はゆっくりであってもおそらくは順調に上達の道を辿るだろう。他人との比較という目に曝される不快から逃げなければ、むしろすぐにできてしまう人よりももっと彼方に辿り着く可能性を秘めていると僕は思う。すぐにできてしまう人はいつか必ず経験するであろう「できない」という事態に困惑するはずだし、そのときに立ち戻れるのが言葉ではなく感覚だろうことを想像すれば、身体化されたあれこれを解体せざるを得ない。そのときに生ずる何とも言えない無力感を克服できるか否か。こればかりは何とも言えない。言葉の獲得に躍起になるか、これまでに培った感覚を拡大適用するようになるのか。こればかりは本当に何とも言えず、この身を通じてこれからも研究していくべき課題だと思っている。

「頭では分かっているのに、なかなかできない」という現象は、言葉を獲得した人間の宿命なのだろうと思う。それがいやというほどわかっていれば、「なんでできないんだ!」と声を荒げる指導者がいかにナンセンスであるかが理解できることと思う。ただ、この辺りのことを論じるには勝利至上主義の蔓延と絡める必要もあるので軽々しく言い切ることはできないが、せめて頭の片隅にでもそっと置いておくべき知見であると僕には思われるのである。