平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「食べるということ」身体観測第67回目。

 本格的に筋力トレーニングを始めたのは日本代表になる直前の23歳の時である。鍛えるべき筋肉を意識してダンベルやバーベルを持つ。栄養学に基づいて正しい食事を摂る。成長ホルモンが分泌される時間帯を見越して十分な睡眠をとる。そうして自らの身体を鍛え始めたのである。

 確かに体重は増加し、相手と接触する際に力強くなった。しかし、当時を思い返してみるとどうにも窮屈な精神状態だったような気がしている。

 特に食事の節制がもたらす影響が大きかった。トンカツの衣を外して油物を避け、鶏肉の皮を剥いでカロリーを抑えたりしていた私は、飲み会で同席した友人たちが躊躇せず豚の角煮や唐揚げなどを口に運ぶ行為を見て、心穏やかでいられるはずがなかった。「身体に悪い物をよくもあれほど食べることができるよな」と半ば嘲笑気味に感じてしまう自分を抑えられない。優越感と疎外感が入り交じる奇妙な違和感が心に充満し、そんな風に感じている自分に戸惑いを隠せずにいたことを今でもよく覚えている。

 好意を抱く人に「食事にでも行きませんか?」と声を掛けるように、私たちはもっと親しくなりたいと感じる人とまずは食事を共にしたいと望む。それは、「食べる」という行為が共同体を立ち上げるために不可欠な行為だからである。そこから考えれば、「食べる」ことの制御は孤立へとつながる。合理的に身体を鍛えていた頃に感じていた奇妙な違和感は、自らを孤立へと追いやりつつあることへの不安でもあったのだろう。

 人工的な食品に埋め尽くされ、食品偽装が多発する現代社会では、「何を食べるか」についての知識も必要である。しかし、「食べる」行為に関する本質的な問題は「誰とどのように食べるか」にある。プロテインサプリメントでは決して賄えないものがある、ということだけは覚えておいた方がよいと思う。

<09/02/24毎日新聞掲載分>