平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

押し寄せる「おしごと」を前にして。

行って逃げて3月になった。
ってなことを言っているあいだに、また去っていくのだろう。
年が明けてからの気忙しさを、
昔の人は本当によく言い表したものである。

今となっては「2009年」や「平成21年」と言ったり書いたりするときに違和感を覚えなくなり、躊躇もしなくなった。
これは意識の上でも無意識においても「年を跨いだ」って事実を受け入れたということで、「2009年」がようやく身体に馴染んだってことなのだ。

一年が始まり、着々と時間は経過しているのだな、うん。

早々と去っていくはずの3月もまた、内容盛りだくさんなスケジュールを過ごす予定である。

今週末はラクロス部合宿の帯同で嬬恋に。
帰ってきた次の日に鳥取は米子出張。
それから送別会に出前講義、デフラグビーの練習見学、卒業式、SCIXフットボールコーチンセミナー、ラグビー学会と続く…。
その間には会議もSCIXでの事務仕事&練習もあり、学会発表原稿を書いて、紀要に載せる論文も書く。
さらには4月から始まる講義の準備もあるしで、ああ、無情である。

自らを鼓舞する意味でこうして羅列してみたけれど、改めて眺めてみると気鬱になってきた。

うー。

でもやるしかないのだ。

ときに飲みに出かけながらも着実に手をつけていく他ない。
それが労働、つまりは「はたらく」ってことだ。

「やるべきことがある」というのは、
どこからどう考えても好ましいことなのだ。
「ほどほどに」ならばもっと好ましいのだけど。

これって、やっぱりぜいたくな願望なのか?

現代社会が立ち行くスピードと、
動的平衡を保つ身体における生体リズムの違いなんだろうな、たぶん。

オンとオフ、本音と建て前、外部と内部、思考と感性、脳とカラダ。
こうした二項対立に引き裂かれるのが現代人の宿命なんだろう。
ならば、きっちりでもなく、だらけるのでもない、言わば中庸をフワフワと漂えるかどうか。それが「器量」となる。

つまりは、ケセラセラってことだよな。

てなわけで、また明日からの「しごと」に向けて今日のところはお風呂に入って少しばかり本を読んでから寝るのである。