平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「故障者の孤独な闘い」身体観測第68回目。

 仲間が練習している風景を、ケガをした選手が恨めしげに眺めている。手持ち無沙汰を紛らわすようにスポーツドリンクを作る姿が、実に健気に映る。思うように動かぬ身体は焦りを、練習や試合に参加できない状態はチームから取り残されるのではないかという不安を生む。SCIXラグビークラブに通う生徒やラクロス部の学生がケガのために練習を見学せざるを得ず、こうした焦りや不安と向き合う立ち居振る舞いを、現役時代に多種多様なケガに悩まされてきた私は心穏やかに見つめることができないでいる。

 選手時代、痛みを押してでもプレーしたい気持ちはいつのときもあった。だから、少々の痛みならば患部をテーピングで固めてグラウンドに立ってきたつもりである。しかし、どうしても気持ちで上回ることのできない痛みもあり、そのときは練習を休むように努めた。

 そう、休むには積極的に「努める」必要がある。

 箇所や程度にもよるが、ケガ人として故障者リストに名を連ねているときに感じる最も手強い心的ストレスは、何と言っても「孤立感」である。仲間が懸命に練習する姿は十分に動けない自分の無力さを際立たせ、置き去りにされるという不安がとめどなく溢れてくる。こうした「孤立感」を引き受けるためには努めて乗り越えるべき葛藤がある。

 痛みが強ければ休み、それほどでもなければプレーする。ケガや痛みを個々の問題として捉えればこれでよいが、チームスポーツとなればそう単純にはいかない。選手相互の信頼関係なくして個々が輝くはずもなく、それを肌で感じている選手は極度に孤立を忌避する心的傾向にある。たとえこの身が傷んでもチームに帰属したいと望むのはだから必然なのである。

 それでも身体は有限である。休むか休まざるかという選手の苦悩を支えるのも、また、指導者の役目だろうと思う。

<09/03/10毎日新聞掲載分>