平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

講義をする中でふと気がついたこと。

いつもの大学生活が再開されて2日が経過した。
休校措置のあいだに身も心もすっかり緩めてしまったものだから、この2日間で4コマの講義を行っただけですっかりと疲れ果ててしまっている。頭の中では「さあやろう!」と意気込んでみてはいるのだが、如何せんカラダの方がまだいつものペースに乗り切れていない。身体というヤツの難しさは嫌というほど身にしみているはずなのに、いや身にしみているからこそ心身の不一致についてこうしてブツブツと書き連ねているのだろうが、僕の思考はいつもここに着地する。一筋縄ではいかない辺りが厄介でもあり、でもそこがまたオモシロくもある。身体に振り回されながらもこうして楽しめているのは、これまで考えもしなかったけれどもしかすると僕にはマゾっ気があるからかもしれない。

それにしても学生の前に立って話をするというのはエネルギーがいる。いい加減な話は出来ないというプレッシャーの中で「エエ加減」な話をするのは、なかなか骨が折れる。往年のテキストを用いて定型的な知識を型通りに話すことなら、ただ時間をかけてしっかり準備さえしていればそんなに難しくはない。「睡眠」について話をした今日の講義にたとえるならば、ノンレム睡眠はどんな状態でレム睡眠はこんな状態で、両者は90分サイクルで訪れるから睡眠時間は6時間や7時間半などその倍数が好ましい、なんてことを自信満々に言い切っておけばいいわけである。わかりやすくて学生にとっても楽だろうし、言うことなしである。

でもさ、そんないい加減なことを言い切って終わりなんてこっ恥ずかしいことはやっぱり僕にはできなくて、「いやいやそんなことをきちんと守って日ごろの生活を整えたところで健康でいられるわけがないんだよ」とついついこの口が話したくなるものだから、ややこしくなる。「現場」が意識されないところでパッケージングされた知識を堂々と話す後ろめたさをどうしても拭い去ることができないのである。特に健康に関しては、「脳震盪の後遺症」をはじめとする数々のケガや病に罹るなかで僕自身が身をもって感じたことが生々しい傷として刻まれているから、医学に対する過度な信頼を寄せる社会の在り方自体を問い直す視点からは決して離れられない。だからついつい「本当のところ」を語ってしまいそうになる。しかしながら、「本当のところ」というものを語ろうとすればそれなりの時間と言葉が必要になるわけで、そこで四苦八苦しているのである。

「本当のところ」を、まだ社会経験に乏しく知識もままならない学生たちに身近に感じてもらうためには、一つの物語を編む必要が出てくる。たとえ話といってもいいだろう。そのたとえ話というものがなかなかうまく浮かんでこないのである。そもそもたとえ話なんてものは、わかりやすく本に書いているわけもなく、ある瞬間にふと頭の中に浮かび上がるものである。なんとかして伝えたいという想いに支えられてあれこれと考えているうちにぽつんと浮かび上がるもので、場合によっては講義の最中に脳裏を過ることだってある。この出来たてほやほやのたとえ話が実は一番な伝わるよなあという確信があるのだが、これがまた偶然に浮かぶものだから話がややこしい。ニンともカンともである。

ただいつも驚かされるのは、彼女たちの持つ「オモシロいこと」への本能的な感度である。毎回の講義の後にほぼ感想文の小レポートを書いてもらうことにしているのだが、それを読むたびに背筋が伸びる。90分の講義の中で僕が「これだけはわかっておいてほしい」と話した内容を驚くほど的確に捉えているからである(ただ表現方法に多少の難はあるが)。「詳しくはようわからんけど、でもなんかわかる気がする」と感じてくれているなら僕としては御の字なのである。

でもまあ四苦八苦しているとは言っても僕自身は十分に楽しんでいるのであり、そこは誰になんと言われようとも譲ってはいけないところだと自覚しているから何とかやっていけている。「本当のところ」を語ろうとしなくなり、やがては語れなくなるなんてことは死んでもゴメンである。そのためにはまず何気ない日々の生活を正すことが何よりも優先されるよなと思っている。徹底的な生活者として生きたいと感じたのはこれまでの人生で初めてで、どこか常人とは違う境地をまなざしていた現役時代には考えもつかなかったことであり、誠に不思議な心境なことこの上ない。ようやく人生のスタートラインに立てたような気もするし、ここまで歩んできた破天荒な道のりから目一杯学んだ結果でしかないような気もしていて、おそらく後者なんだろうけれど主観的には前者な気分である。

さあ帰ろう。