平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

公開講座を終えて。

太陽が燦々と照りつけはじめた昼下がりに研究室で佇んでいる。
つい先ほどまでもう一人の先生と学生たちとでランチをしていた。土曜日なのになぜ学生が大学に来ているのかというと、小学生の子どもたちを対象にした公開講座「ジュニアスポーツアカデミー」のアシスタントをお願いしたからである。この講座はジュニアスポーツ教育学科の先生が手分けして担当することになっており、今日の講座は僕が担当したのだった。

今日の講座は「敏捷性トレーニング」。「アカデミー」という名がついているので、パッと見はアスリート養成の色が濃いような印象を与えるかもしれないが、実際にはそうではなくて、楽しく身体を動かすことを目的とした講座である。小学生の頃はとにかく目いっぱいに身体を使うことが大切である。夢中になって走り回る。夢中になって転がりまわる。夢中になるというのはすなわち時間が消失するということ。全体練習の後に居残ってひとりボールを蹴っていたら、いつのまにか日が暮れかけていて思わずハッと我に返ったことが現役時代にはよくあった。つまりのところ時間が消失するというのは、そういうことである。「今」に自分が同化すれば間違いなく時間は消失する。正確に言えば、時間概念が主観的になくなるということである。それが「夢中になる」ことであり、子どもたちを前にして私たちができることは、「今」に全力で埋没できる環境を用意するに尽きる。

ということで、今日はまずアシスタントの学生たちが中心となって「じゃんけんゲーム」を行った。4~5人のグループ同士でジャンケンをする。それぞれが手をつなぎ、全員が座ればグー、真ん中の2人が立てばチョキ、全員立てばパーという具合にして勝負する。負けたチームは後方に定められた位置まで逃げ、勝ったチームは逃がさないように追いかける。別々の小学校から集まった子どもたちはまだお互いを意識して十分に仲良くなっていなかったので、こうしたグループごとでのゲームを最初に持ってきたのである。「何を出すのか」について積極的に話し合いをする子どもたちの様子を見て、しめしめとほくそ笑んでいたのだった。

次にやったのは「氷鬼」、そして「サバイバル鬼ごっこ」。アシスタントとしてお手伝いしてもらった4人の学生が代わる代わる鬼になり、ちょこちょこと逃げまくる子どもたちを追いかけまわす。鬼に捕まらないように夢中になって右に左に走る子どもたちを見て、改めて鬼ごっこという遊びの素晴らしさに感心する。鬼に捕まらないように走る方向を変えたり、スピードをコントロールしている子どもたちの身体は、とても伸びやかでしなやかである。言うなれば「ステップ」や「チェンジオブペース」を自発的に行っているわけである。しかも子どもたち自身は楽しいと感じているわけで、こちらが何の話を付け加える余地もない。昨今では「科学的」などという理由からいろいろな運動が開発されていて、その影響から子どもたちにもそうした運動を強いるような風潮が蔓延しつつあるけれど(この「アカデミー」自体が実はそういったものだと言えなくもない)、鬼ごっこを徹底して行うことが何よりも「敏捷性トレーニング」になる。科学的に検証できなくても、いや、できないという事実がよりその効果を物語っている。瞬時にいろいろな部位が動き、感覚的なものに影響を受けている身体の動きを、二次元的な論文という形で証明できるはずもないからである。身体は「同時進行」なのだ。そうした現象を一つ一つ分解する行為は愚である。

目を輝かせて「次なにやるん?」と訊ねてくる子どもたちにすっかり気分をよくして、次に行ったのはラダートレーニングである。敏捷性はすばっしこさのことだよ、すばしっこく動くには足を小さく早く動かすんだよ、という話をしてからラダーを行ってみた。単なるトレーニングを行うというよりかは、「経験したことのない遊びを紹介するつもり」で話をしてみると、なかなかみんな楽しそうにやっているように見受けられた。退屈な思いをするかもしれないと予測していたのでホッとする。ふう。

最後は反復横跳びの測定。みんなが一所懸命に取り組む様子を見て、子どもというのはなんて素直なんだろうと、当たり前に当たり前なことが胸を突く。だからこそこちらの言動には細心の注意を払わないといけないのだろう。いや、細心の注意を払うというよりは、無邪気なままに子どもたちの目線に合わせつつダメなことはダメだよとはっきり示さないといけない、ということだろう。子どもと一緒に遊ぶだけなら目線を合わすだけもいいかもしれない。だけど、みんなが集まって一つのことをしようとする時には、守られなければならない最低限のルールが存在するわけで、そのルールをきちんと守らせる義務が指導者にはある。ここをできる限り厳しくすることなく、ということはつまり子どもたちに管理されているという認識を持たせないような配慮を伴って、自由にのびのびと夢中になる時間をつくることが、指導者の役割だろうと僕は思う。

少し早めにメニューを終えて残り15分くらいは自由時間にしたのだが、すぐに帰る子どもたちも少なく、ボールやフリスビーなどで遊びまわっていた。たぶん、こうした時間も「夢中になって遊べる環境」に入るのだろうと、嬉々として走りまわる子どもたちの表情からそう強く感じた。「自由時間」は、いわば「不自由な時間=講座」があることでその存在が輝き出す。拘束と言うと少し語弊があるかもしれないが、講座という枠内に留まっていた後の自由時間は、たぶん子どもたちにとってはとても自由な、開放的な時間なんだろう。

決められた内容をきちんと行うよりも子どもたちが楽しく感じられるような空間をつくる。当たり前なことを当たり前にしていきたいと思う。

一昨日の朝カル、甲野善紀先生と名越康文さんの対談についてもいろいろと書いてみたかったのだが、今から来週の講義の準備をしなくてはならないので、ひとまずこのあたりで筆ならぬ指を置いてみることにする。とにかく「今―今―今」なのである。