平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ここは北区鈴蘭台のはずだが。

昼過ぎには晴れ間が覗いたけれど今はすっかり荒れ模様。
ようやく梅雨らしい天気になった週初めの月曜日である。

湿気のおかげで体表がベタつくから決して好ましくない梅雨の時期だけれど、やはり雨が降らないと「らしく」ない。何もかもに当てはまるだろうが、「らしくある」ということが妙に心を落ち着かせるような気がするのは気のせいじゃないだろう。梅雨は梅雨らしく、ベタついてじとっとしておけばいい。なんだか今はそんな気分である。

金曜日の出前講義ではささやかな手応えを感じて帰ってきた。エピソードの話には16名の生徒たちのほとんどが熱心に耳を傾けてくれていたように見受けられて、僕が伝えたかったことのほとんどは伝わったのではないかと感じている。伝わったかどうかなんて明確にわかりっこないから、おそらく伝わったであろうという直感が感じられたという点で満足しているというわけである。

講義を聴いてくれたみんな、
これから幾度か経験するであろう面接を、しっかりと乗り切れよー。


てなことでなんやかんやバタバタとしていながらも、時間をみつけて本だけは読んでいる。やっぱり読書だけは欠かすことができない。僕が研究者だからとか、そういったしょーもない理由ではなくて、とにかく言葉が欲しくなるのである。僕の周りにいる方々や師匠や心友たちと比べると、その中毒性は圧倒的に低いのだけれど、ある種の活字中毒だろうと思われる。最近はブログで書くことに心が向かない時が多いので、「書く」よりも「読む」ことの方に気もそぞろらしい。それでもいつの頃と比較すれば読むペースが遅々として進まないのが気がかりではあるが。

いつかに読んで目から鱗がボロボロと落ちた『身体(からだ)の言い分内田樹・池上六朗、毎日新聞社を読み返して、まだかろうじて残っていた鱗までもが落ちてスッキリとなる。身体というものを考えていく作業は、思考の途中でよくわからなくなってこんがらがることがままにある。身体のことを考えているこの僕もまたひとつの「身体」なわけであるから、その辺りが絡まってよくわからなくなるのである。そんなときはついつい明確な理論にすがりたくなる衝動に駆られたりして、うーんと頭を抱え込むことになる。ついこの前はまさにそんな状態だったが故に、内田先生や甲野先生が書かれた(話された)言葉に頼ろうと本棚を物色してたどり着いたのだろう。

まことしやかに吹聴される情報に曝され続けると「もしかしてそうなのかもしれないな」とそちら側に流されてしまいそうになるのは僕自身がまだまだ未熟だからで、大概の事は振り払うことができるようにはなったがまだまだ不十分である。もっと強くありたいと思うし、揺るがない信念を持ちたいと心から願っているが、如何せんまだまだあまちゃんなのである。中途半端に固まるくらいならやわらかなままでいてやろうと思っているのもあって、その辺りの微妙に意固地なところがこれまた厄介なのであるが、このスタイルはまだ崩したくないし、決して崩さないつもりでいるから、まあしばらくはこうして揺るぎながらやっていくしかないのだろう。

吸収する意欲を持ちつつも、固めていいと思われるものは少しずつ固めていく。
今はそんな心境である。

とてつもなく抽象的な言葉になってきて、おそらく僕にしかわからないような文体になってきたきらいもあるので、今日はここら辺で切り上げる。お腹もすいたし。

相変わらず外は荒れ模様。
霧の具合を見ていると、まるで夏の菅平にいるような感覚になってくる。

さあ帰ろう。