平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「近所の公園で」身体観測第76回目。

 近所の公園では、休日になると友達同士でサッカー的な遊びをしたり、お父さんとキャッチボールをしたり、その傍らではお母さんが見守る中をよちよち歩きの子どもが砂をいじっている光景が広がる。ある時、野球らしき遊びに興じている子どもが握っているプラスチック製のバットに目が釘付けとなった。芯の部分にビニールテープで補強が為されたあのバットは、私が幼い頃に作ったものと何ら変わらない。少し重みが増すことで遠くに飛ぶようになるし、使い過ぎによる先端部分の破損を避けることもできる。あまりに懐かしくて思わず表情が和らいだ。

 現代の子どもたちは外遊びをしなくなったと言われる。その背景にはゲーム機の普及が挙げられ、それが体力低下をもたらす原因であるという説明が為されている。果たして本当なのだろうか。公園の様子からは、ゲーム機の普及は一因ではあっても主因ではない気がするのである。

 ある日、お父さんが投げるボールを何度も空振りしている男の子を見かけた。どうやら特訓をしている。どうしても打てるようになりたいと何度もバットを振る男の子と、それに付き合うお父さん。辺りが薄暗くなってきているにもかかわらず、その男の子はやめる素振りも見せずにバットを振り続けていた。

 できなかったことができるようになるまでのプロセスと、そのプロセスを経てある瞬間に訪れる「できた」という快感は、ゲームから得られる擬似的な面白さとは似ても似つかない。それは何も特別な動きではなく、一人ですべり台を滑るとか、2つとばしで階段を駆け上がるとか、大人が遠い昔に獲得してきたはずのなんでもない動きである。何気ない運動ひとつひとつからも子どもは快感を得ることができるのである。

 子どもは身体的な快感を本能的に求めている。大人はそれをいつの時も忘れてはならないと思う。

<09/07/14毎日新聞掲載分>