平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

朝まで世界陸上。のはずだったんだけどね。

夜食に懐かしのチキンラーメンを食べて空腹をやりすごしながら世界陸上を見ていたのですっかり寝不足である。昨日も書いたけれどお目当ては男子100m。準決勝と決勝が行われるのだから見ないわけには行かないといきり立ち、ライブで見たれーとばかりに夜更かしを決め込んだ。

ベルリンの壁と記録の壁を語呂合わせ的に結びつけた過度な演出に辟易としながら何時間も画面とにらめっこ。あまりに長い時間をこうして世界陸上に晒されていると、これまでと比べて若干テンションを抑えていると思しきオダユウジのおっちょこちょいなコメントも耳に慣れてくる。しかしながらなかなかお目当ての男子100mは始まらない。確か準決勝が始まったのは2時半頃だった。

塚原選手の敗退は残念だったが、他の選手との比較において決勝に残る可能性は限りなく低いと見受けられたし、何より後半の加速が大人と子どもほどに違いすぎて世界の壁がとてつもなく高いことを毎度のことながら実感させられた。陸上競技をしたことのないまったく門外漢の僕が言うのもあれだけれど、陸上競技ほどに世界との差が際立つスポーツはないのではないかと思う。

北京オリンピック400mリレーで銅メダルを獲得し昨年引退した朝原宣治氏は、30代後半まで現役を続けて100mのファイナリストを目指した。競技をしたことのない人間から見てもその差は歴然としているのだから、実際に競技に携わっていてしかも身体能力が極めて高い競技者が肌で感じている壁の高さは、僕たちの想像をはるかに凌駕するものだろうと推測される。ある意味で到達を放棄しなければならないような壁に立ち向かう心境はいかなるものか。しかもそれは個人競技だからすべて自分に跳ね返ってくる。同じ道を歩む者として感じられる絶望的なまでの差を、どのようにして自らのモチベーションに変換していたのかがとても気になる。

女子100mにしても男女400mにしてもトラック競技の何もかもが、見れば見るほど日本選手には決して手の届かない特別な場所で競われているように思えてならない。ならばそこで奮闘する日本選手はどのような心境で戦っているのだろう。

何時間もボケーッとテレビ画面を眺めながら頭を過ぎったのはこうした想いであった。とてつもなく高い壁、特に身体能力や運動能力の壁を突きつけられたあとに、人はどのように自らを鼓舞するのだろうか。僕の中でも似たような経験があるだけにとても興味が湧いて、これからしばらくはこうした視点でスポーツを観てみようと思う。

さてと話は本題に。ボルトとパウエルとゲイの話に移りたいところだが、しかし僕はまだ準決勝しか見ていない。準決勝を見終わってストレッチポールの上をゴロゴロしているうちに強力な睡魔が襲ってきたので、残りの2時間を録画してベッドに入った。後ろ髪を引かれながらも「起きてすぐに見ればええことやん」と開き直ってグースカ夢の中へ。

そして今朝。録画したはずのDVDを再生しようとすると「できません」の表示が出る。まさかの録画ミス!というかレコーダーの不良でしょ、これは。だって「予約録画」ではなく確実に録画ボタンを押し、録画状態を確認してから眠りに就いたのだから。

これには朝からすっかりと参ってしまった。こんなことになるならばあと2時間ばかり頑張って起きとけばよかったと悔やむ。悔やんでも仕方がないがそれでも悔やむ。くぅー。

無駄な抵抗とは知りつつも慌てて新聞のテレビ欄を見やり、どこかで映像が放送されやしないかと淡い期待を膨らませると、一番早く見られそうなのが「ちちんぷいぷい」であった。それまではネットでサンスポドットコムにアクセスなどせず情報を遮断して結果を知らずにおこうかと考えてもみたけれど、バラエティ番組だけに司会者が「昨日の○○はすごかったですねー」と結果をほのめかすような気がするから、このささやかな努力が徒労に終わる可能性は高いだろう。

そう思いつつも今はまだ結果を知らない。
誰がどのようなレースで勝ったのだろう、そして世界記録は更新されたのだろうかと、思うがままに想像を巡らせている。

準決勝の様子から推測するにボルトの勝利は揺るがないだろうという気がしている。ゲイはスタートが悪く、それが痛めている足の付け根の影響か意図的に力を抑えているのかが判断しづらいと解説の朝原氏が言っていた。なるほどなあと聞きつつも、もし力を抑えて余力を残そうとするならばレースの後半をリラックスして走るはずで、スタートを意図的に抑えるというのはあまりにリスクが大きい。1次、2次、準決勝のゲイの走りは、後半部分は割と力を込めて走っているように見受けられたので、スタートの反応の悪さは痛めた足の影響を受けているのじゃないかと思う。なんとなくだけれど。

それと、パウエルの調子が良さそうだと昨日のブログに書いたけれど、やはりパウエルはパウエルだった。プレッシャーがかかると途端に固さが見られるといういつものパウエルが戻ってきつつある。隣り合わせのレーンでゲイと走った準決勝では、1次、2次のような爆発的なスタートからの走りが見られず、後半はあっさりとゲイに捲られた。あくまでも予選だから力を抑えた結果に過ぎないかもしれないが、並ぶ間もなくいとも簡単にかわされるあの抜かれ方はよくない。「記録」ではなく「勝負」という意味でよくないと思う。

さてボルト。彼ばかりは何とも形容のしようがない。調子がどうだとか、走りがどうだとか、そんなことを抜きにしてただ単純に走りを見ているとワクワクしてくる。見ていてただ楽しい。スタート直前のカメラの前でおどけるあの姿を見てるだけで陽気な気分になるのである。勝つとか負けるとかはどうでもいい、という風にはさすがにならないのだけれど、勝負なんて二の次にしていいからとにかく早く走ってくれへんかなあ、という気持ちになるのはとても不思議だ。だからフライングした時はドキドキした。失格というオチだけはつかないようにと、祈るような気持ちで願っていたのだった。

ゲイやパウエルをはじめ、他の選手の走りは見ていて思わず力が入る。力む。ゲイの首筋あたりの筋肉の張り具合からは特にそのように感じる。でもボルトの走りは身体の奥が蠢く。力むのではなくどちらかといえば緩むのだ。緩むから身体を動かしたくなる。表情も緩むし立ち上がりたくもなるし声を出したくもなる。いや、声は自然と出てしまう。

何だかこうして書いているとほとんどボルトが勝つようにしか思えなくなってくるが、ただ勝負というものは水物だからどう転ぶかわからないのが現実である。勝利の女神は気まぐれなので誰に微笑むのかは予想できない。このまま結果を知ることなく、「とにかく先に映像を見てみましょう」と司会者が宣ってくれることにわずかばかりの期待を抱いてテレビをつけようと思う。

さて、結果はいかに。

しかしながら冷静に考えてみると睡魔に負けた「オレのアホー」となるのは否めない。ふう。

[追記]
たった今「ちちんぷいぷい」でレースを見た。
驚愕の世界記録に大興奮!いやはや何とも凄すぎる!
でも悲しいかな、ライブじゃないので記録からの感動しか得られないのがもの凄く残念。あー、やはり見逃したのは大失態である。がくっ。
それにしてもボルト恐るべし。