平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

イチローと井上雄彦にアタル。

今日はAO入試の面接担当だったので大学に来ている。面接と評価を終えて先ほど研究室に戻ってきた。面接というのはなかなか骨の折れる仕事である。まずは志望動機や将来の展望などの聴いておかなくてはならないことを訊ね、その人となりを探るべく適切であろう質問を繰り出す。用意された文言の繰り返しというサイクルから何とか逸脱してもらおうと質問するのだが、うまくいく時といかない時がある。難しいものである。

さてさて、世間は5連休。勤労感謝の日ゴールデンウィークに引っ掛けて「シルバーウィーク」というらしいが、まだ夏休みが続いている僕としてはあまり関係がない。よく考えれば今日がその初日にあたり、大型連休初日から仕事なんだよなあと無理やりに思ってみるも実感は湧いてこない。当たり前か。

さてと、改めてこの1週間を振り返ってみるとなかなか密度の濃い日々を過ごしていたことに気づかされる。と言っても、いつものように大学に通っていただけだから、どこにいって何をしたか、というように空間的・実務的に密度が濃かったわけではない。いつもと違うことは、研究室の引っ越しや体育館にある用具の整理だけで、あとはいつもと同じである。

では何の密度が濃かったのか。
僕の精神である。煮詰まりそうなほどに濃かったのである。

土日は高野山に出かける。世界遺産にも登録され、弘法大師空海が開いた霊場である高野山に足を踏み入れると、なんだか身体がピリリとする。思いこみかもしれないけれど、皮膚呼吸が自覚できるほど全身の毛穴から何かが出て何かが入っているような感覚になる。これがオーバーな表現だと突っ込まれるならば、少なくとも身体の緊張が幾らか解れるような感覚になるのは譲れない。まことに不思議である。

下山した翌日はNHKスポーツ大陸イチロー特集を見る。9年連続200本安打を記念しての番組だったが、相も変わらずイチローの求道ぶりに背筋が伸びまくる。詳しい内容は身体観測にて書くつもりなので、ここでは深く掘り下げることは避けたいのだが、イチローの話す言葉からはいつもため息混じりの感動が得られる。言葉一つ一つに込められた想いを想像するだけでたまらなくなるのである。「なぜ、打率よりも安打数を重要視するのか?」という理由からは、イチローがまなざすものを推し量ることができたように思う。イチローのすごさについては常日頃から考え続けているが、この言葉からはいろいろな考えが生まれそうな気がしている。

詳しくは次回の身体観測に書こうと思っているネタなので、是非楽しみにしていてほしい。来週はシルバーウィークで休みなので、あと2週間ほどじっくりと温めて書いてみようと思っている。

さて、心の中がイチローフィーバーになっていた翌日は、NHKプロフェッショナル~仕事の流儀で井上雄彦特集を見る。「圧巻」であった。テレビ越しにさえ伝わってくる大らかな雰囲気に、すっかりとやられてしまった。

以前にBRUTUSでの特集を読んでいたこともあり、それ以外でも井上雄彦という人物は知っていたが、映像として見るのは初めてだった。「人を斬る漫画を描いていて痛い思いをしないのはズルイ」とか、「ストーリーをどうのこうの考えるんじゃなくて、登場人物を描き切れば自然とストーリーになる」とか、しびれさせるようなフレーズを朴訥と話す姿は、まさに“格好エエ”の一言に尽きる。

なんていうか、初めて耳にする言葉なのにもかかわらず忘却の彼方から思い出すような気持ちになるのが不思議で、「手に負えないことをやる」というフレーズも、たとえわずかであっても一度は過去に考えていたはずのことだと思わせる不思議さがある。「手に負えるだろう」という自覚は、すべてを見通した上で、頭で計算した上でしか生まれないもので、それは小賢しさでしかないと井上氏は言う。なるほどと思う。その通りだと思う。でも、頭でそう思うことができてもいざ実行に移すとなればどれほど難しいことか。これはちょっと考えればわかるだろう。

手に負えないことをやり続けている。このことだけでもまさに圧巻である。

僕の想像を絶するところでものすごい事をやり続けている人間がこの世にいる。彼らの存在が間近に感じられ、しかも年齢が僕とそれほど変わらないというところがさらに追い打ちをかける。「あの人たちは次元が違う」と意図的にその存在を視界から外して傍観する立場をとることはできるし、そうした方が精神衛生上はよいのかもしれないけれど、たやすくそう考えたくはないと思っている。どちらかというと「たやすく考えてはいけない」と意識的に自らを戒めている節もある。

どんな種類のものであってもメディアを通じて僕たちの手元に届く情報は真実のほんの一部分である。だから、イチロー井上雄彦氏についての情報もほんの一部分でしかなく、彼らの全貌を知ろうと思えば、これまでの生き様について、つまり今のイチロー井上雄彦を形作るまでのプロセスについては存分に想像力を駆使しなければならない。どのような生き方をしてきて今があるのかを想像することなしに、人物像を把握することなんてできやしない。

そうして想像力を働かすためにはどうすればよいか。それは彼らが直に口にした言葉を解釈するしかなくて、さらには「顔」を知ることで想像力はたくましくなる。彼らのようになりたいのではなくて(なりたくたってなれないわけだし)、彼らのような生き方に自分をなぞらえながら自分なりの生き方を模索したいのが、おこがましいかもしれないけれど僕の本音である。だからいっちょ前に興奮もするし、共感めいた気分にもなるのである。

「密度が濃い」というのはこういうことである。心の根っこの部分を掘り下げ続けるお二人の、根源的な意味を内包した言葉にすっかりと打ちのめされたのだった。僕の心はすっかり煮立ってしまったけれど、ええダシが出てくるまでにはもっともっと煮る必要があるんだろうなと思っている。