平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

美しい言葉は素敵だ~BRUTUSを読んで。

おそがけに帰り着いた昨夜。やや強い疲労感があったので、ぬるめのお風呂にゆっくり浸かることにした。この週末はよく飲んだよなあ、少し鼻炎気味なのもそのせいだろうなあ、などと考えながら湯を張り、雑誌BRUTUSを片手に湯船に浸かる。たまに銭湯に行くことはあっても、本や雑誌を持ち込んで少し長い目に入るお風呂が僕にとっての日々のリラックスタイムなのだ。

ふと訪れた書店で「美しい言葉」と筆で書かれた表紙に目がとまり、たまたま購入したBRUTUSはとても刺激的であった。Twitterなるものがこの世に存在していることも勉強できたし(これまで知らなかった)、村上春樹について書かれた高橋源一郎さんの文章は、これまでの僕には全くの無縁だった文学の世界をおぼろげながらにわからせてくれた。正確にいえば、村上文学が文学の世界においてどのような位置を占めているのかが、なんとなく理解できるに至ったということだ。

近代文学最大のテーマであるセックスと死を全否定し、近代文学の徹底的な批判者として登場したにもかかわらず、結局のところ近代文学の最良の後継者となったのが村上春樹であり、彼は「生き方の提示」という最大の仕事を引き継いだのだとの高橋氏の言葉には、文学とは何ぞや的な問いをこれまで一度も考えたことのない僕ですら、わかったような気になった。いずれすべての村上春樹を読破せねばならないと、改めて決意を固めた次第である。

職業作詞家も紹介されていて、松本隆が作詞した木綿のハンカチーフを初めて活字で読んでみて感じたのは、率直にええ歌やなあという印象であった。都会に出て行く男と田舎に残された女の、せつないまでのすれ違いが軽快なリズム感の中に表現されている。僕がこんな風に評論するのもおこがましいのだが、とにかくなんだかグッときた。風呂上がりに開脚してストレッチしているときに読んだ箇所だったので、身体がリラックスしきったところで気分もよく、ついついメロディを口ずんでその世界に浸っていたのだった。

そしてそして、久しぶりにこうして肩の力が抜けた感じでブログに向かえるきっかけになったのが「橋本治の、よくわかる美文講座」である。美文とはどういうものであるかについての内容なのだが、“美文は「余分な知識」でできている”という箇所に目から鱗がボロボロと落ちた。というよりも、忘却の彼方に置き去りにしたままだったことが瞬時によみがえったという感じである。ああそうか、僕はなにか意味のあることを書こう書こうとし過ぎていたのだな、とにかく為になるような話を書かなくてはいけないと、書けもしないくせに力んでいたのだなと、感じたのである。

そんなことはとっくの昔に気付いていた。そう、薄々は気付いていたのだ。でもね、あくまでも薄々に気付いていただけで確信は持てなかったし、こうした種類の確信は自分一人では決して得ることのできないものなのである。自分以外の誰かによって、誰かの言葉によっていとも簡単にブレークスルーできるにもかかわらず、自分自身ではどうにもできない状況というのがある。そんな状況の中で行きつ戻りつしていた僕の背中を、橋本氏の言葉がバーンと押してくれた。そんな気がしている。

書き手の主観的にはどうでもいいことだ認識している知識は、実のところはどうでもいいことなんかではなくて、どこぞの誰かにとっても、はたまた一巡して戻ってきた自分にとっても、どちらにとっても極めて楽しげで生きていくうえで大変に必要不可欠なことだったりする。たぶん、そういうもんなのだ。

僕の「どうでもいいこと」は、意外にもみんなにとっては「どうでもよくない」ということ。いつぞやに強く自分の中で意識していた事柄だけに、なぜ失念していたのだろうかという問いもまた自分の奥深くにあるところを掘り下げていくためには面白いテーマになりそうだが、話が複雑になるのでここではやめておくことにしよう。何が有用であり、何が有用でないのか、ということをまだまだ未熟な自分が十全に判断できるはずもなく、まだまだ未熟な自分が判断できるものだけしか判断できないのだから、その判断によりもたらされた結果は得てしてつまらないものになるに決まっている。だって未熟な自分が決めたことなんだから。そこんところは自覚しておかないと、ついつい調子こいてしまうのがオレって人間だ。

ではどうしたらいいのかというと、とにかくありのままを書くしかないのだ。ありのままの自分が考えたり悩んだり、くよくよしたり喜んだり、なんだかんだと感情が動いたものについて書くしかないのである。これまではたぶんそのようにして書いてきたはずであるが、いつの頃からかええ格好しようとして、できもしないのにきれいに書いてやろうなんてことを目指していたのだろうと思う。もちろん無意識的に。どこかなんとなくわかったふりをしていて慢心気味だった自分も、これまでを振り返ってみて見つけることができるから「ああ自己嫌悪」である。

橋本氏は、美文とは「自分から距離を置くこと」であり、美文は「自分にはわからない文章である」とも述べている。なるほどなあと改めて納得を得る。というか、過去に一度は触れたことのある感じが思い出されて再び「あー」となる。

自分から距離を置くには、ひとまず自分がどう思われるかについての意識を棚に上げることだと僕は解釈している。つまりは自分を含めた世界を俯瞰的に眺める視点から書くということであり、「ここにいるこのオレが書くのだ」という意識を薄める必要がある。なかなか難しかったりもするのは、心が安堵感に満たされてなければキツイってところである。周りにいる親しい人間からある程度の承認を得られていなければ、自分と距離を置くことってできないというか、難しい気がする。だからどうすればいいのかと聞かれると答えに窮するのだが、僕はそうなんじゃないかという気がしている。

自分にはわからない文章というのは、とにもかくにも書きながら考えていくことから逃げないで、言葉ひとつひとつをこうして積み上げていくことによって結果的にできあがる文章のことだろう。起承転結がしっかりしていて、オチまでしっかり見渡せる文章というのではなくて、普段の生活の中で感じた違和感をもとに、その時に感じた感覚みたいなものをたよりに手持ちの言葉でそれを表現しようと書かれた文章だ。書きながらに自分で考えているのだから、ある意味で出来立てほやほやの考えでもあるし、もちろん書いている途中は自分が何を書いているかなんてことが理解できるはずもない。

ああ、思い出した。こうして書きながらに思い出した。
こうやって書いてたよな、これまで。うん、間違いない。

どんどんどんどんブログから遠ざかっていくのがなぜだかよくわからなくて、そのわからなさに苛まれてさらにブログから遠ざかるような気になっていた。それがやがては書くという行為からも離れていくような不安になり、書くってどれだけ億劫なんだろうなんてことも脳裏を過るまでになっていたのだけれど、こうして書いてみて少し落ち着いた。

美しい言葉たちに僕は救われた。
ちょっと長かったトンネルから抜け出せた。
またこれまでのように書いていこう。
そんな気持ちになっている今の自分をとても気に入っている。

はー、なんだかすっきりした。
それにてしてもまさに美しい言葉だったな。