平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「引退の意味」身体観測第85回目。

 ジュビロ磐田中山雅史選手が戦力外通告を受けたことに驚いた。元日本代表でもあり、長きに渡りジュビロを引っ張り続けたあのゴン中山がまさかと思ったが、詳細を知って得心がゆく。チームからのアドバイザー就任要請を受け入れることなく現役続行を希望したための、やむを得ない通告だったのである。

 引退試合でのパフォーマンスからは衰えない人気がうかがえたし、過剰なまでに前向きな発言は各局、各紙を賑わせた。ただ、移籍先を探すべくトライアウトで汗を流す姿からはどこか悲壮感が漂っているように見え、何かから必死に顔を背けているような印象も受けた。

 あくまでも現役にこだわる中山選手とは対照的に、突然の引退発表で世間を賑わせたのが阪神タイガースの赤星憲弘選手である。脊髄損傷による影響から首や腰が痛み、さらには手足のしびれが続いて、眠れない日々が続いたのだという。脳震盪の後遺症が原因で引退を余儀なくされた私としては、赤星選手の引退会見を心穏やかに見ることはできなかった。どこか遠くを眼差すような眼差しが私の心をつかんで離さなかった。

 現役を続けるのか否か。適齢期を迎えたスポーツ選手が身をよじるほどにのたうち回りながら向き合う問いであろう。競技力の衰えを痛感したときに訪れるこの問いは、自分という存在を容赦なく揺さぶる。不安を払いのけるべく気負う自分と、引き際に思いを馳せるもう一人の自分が、一世一代の大勝負を繰り広げる。ただこの勝負、ケガが原因ならば結果は決まっている。片付かない心を引きずりながら黙然と身を引かざるを得ないからである。

 引退とは競技歴の終わりを告げるものだが、人生においては区切りでしかない。喪失感がつきまとう現役引退に意味を与えるのは、その後の振る舞い方にある。だから引退は終わりではなく始まりなのだと私は思う。

<09/12/15毎日新聞掲載分>