平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『井上雄彦 最後のマンガ展 大阪版』に行く。

先日『井上雄彦 最後のマンガ展 大阪版』に行ってきた。上野美術館で催されたときには足を運べそうにないことを薄々感じながら「行きたい」と思い、続く熊本のときはほとんどその気になりながら「行こうかな」と悩んで、結局どちらにも足を運ばなかった。井上ファンとしてこんなことでいいのかと自問自答していたところに大阪でも開催されることを知り、待ちに待った挙句に乗り込んだというわけである。

とにかくよかったの一言に尽くされるが、その一言で片づけてしまうのもまた惜しいという、なんだか複雑な思いに駆られている。とにかく絵がすごい。和紙の上に墨で描かれた武蔵の表情はこちらに何かを訴えかけてくるような威圧感があった。老いた武蔵を井上雄彦はこういう風にイメージしたのかということに思いを馳せながらその武蔵とにらめっこしていると、何やら表現し難いイメージがあとからあとから湧いてくる。そこから一歩も動けなくなり、そのまましばらく立ち尽くす。身体に萌す何かを感じながらその絵との対話が一通り終わると、また次の絵に向けて自然と足が動き出す。そうしたペースで一枚一枚の絵とにらめっこしながらゆっくりと館内を歩いてきた。

印象的だったのは、まるで鬼のような形相で描かれた新免無二斎と、こんなおじいちゃん身近にいるよなあと思わせるほど柔和な表情をした柳生石舟斎との違いである。「天下無敵」にこだわり、自らの強さをこれでもかと誇示し続けた無二斎の表情は周囲を恐れさせるに十分であり、片や本当の強さとは何であるかを問い続けた石舟斎の表情は人を惹きつけずにはおかない。「天下無敵」という言葉の本当の意味はどういうことなのか。このメッセージが強烈に伝わったがために心が動かされたのだと思う。

武蔵は、幼年時代は父である無二斎の教えを受け、というよりも乗り越えなければならない壁として無二斎という存在があった。その無二斎は、自らが天下無敵であることを望むがあまり我が子である武蔵をもひとりの敵としてみなしていた。その敵意にさらされながら生きた武蔵が、
舜や吉岡一門との戦いを経ながらやがて柳生のじいさんや宝蔵院胤栄が志した本当の強さを目指すようになる。本当の強さとは、今の自分が想像している強さと全然違う質感を持つのではないか。無二斎が目指すところの強さと、柳生のじいさんや胤栄がまなざす強さは全く異質なものではないか。そのことに気付いて苦悶し始める。これが言わばバガボンドに底流するストーリーである。

「天下無敵」という言葉が私たちにもたらす表層的で幻惑というべきイメージを無二斎の表情が表わし、「天下無敵」という言葉が示唆するところの本当の強さのあるべき姿を柳生のじいさんが表象している。圧倒的な画力が醸し出す2人の表情を見比べて、強さとはあたたかくてやわらかいものであるというその境地に至る道筋が朧げながらに見えた(ような気がする)。このマンガ展に足を運んで感じたいわく表現し難い感動は、この点に尽きると思われる。表面的な意味ではなく本当の意味での強さとそれに至る道筋がイメージできるという喜び、それに対する感動。そういうことだろうと思う。

とにかくこのマンガ展は見ておくべきだと思う。おせっかいだろうけど本当にそう感じる。見なくても損はしないだろうけど、人生をふくよかにしてくれる大切な何かは得られずじまいに終わるだろう。間違いない。おせっかいなのは重々承知だ。でもそれでもあえて書かせてもらうくらいの、とてつもなく大きな思いがボクにあることだけはわかって欲しいと願う。

ぶっちゃける。とにかく行け!そう思うのである。