平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

身体に染み付く固定観念がまたひとつ落ちる。

眠らなきゃいけない。きちんと睡眠をとらなければならないと思い始めたのはいつの頃からだろう。たぶんあの頃だろうな、という見当はついている。22時から2時まではたくさんの成長ホルモンが分泌されるから、カラダを大きくしたければこの時間は眠りなさいと指導された、あの頃だ。

睡眠だけでなく食事も三食をきっちり摂りなさい。しかもその内容をしっかりと吟味しなさいと、こと細かに指導された。プロテインサプリメントを摂取するタイミングも決まっていた。プロテインの種類はどんどん増えた。ビタミン、ミネラル、アミノ酸、BCAA・・・、サプリメントの種類はどんどんバリエーションが豊かになった。「超回復」を利用して筋肉を肥大させる。その結果としてカラダが大きくなる。あまりにシンプルすぎるストーリーにわかったような気になって、とにかく機械的な生活を心掛けたのは確かにあの頃からである。

そう、明確な目的をもってラグビーに取り組み始めたときからだ。「日本代表になる」という目的意識をもとにラグビーへの取り組み方を改めたのだった。ボクにとって課題だったのはカラダの線の細さ。スピードはあるけれど体重が軽く、相手との接触プレーでは弱さを露呈する。世界との戦いになればこの体格差は致命的であると指摘され、自分自身も代表レベルでの接触プレーがどれほどレベルが高いかを体感したこともあり、これはなんとかせんとアカンなと一念発起。トレーナーが立てた体重増量計画、筋肉増量計画を着々と遂行し始めた。

ウエイトトレーニングに精を出す。食事を見直し、プロテインで補いつつたんぱく質をたくさん摂る。十分な睡眠を摂る。そのサイクルで日々の生活を送るとあれよあれよという間に体重は増えた。途中からとても楽しくなった。ただ、周りの選手に比べるとその増え方はなだらかで、しかも86kgあたりが壁となりそこから増えることはなかった。ボクの体調を管理する当時のトレーナーからはまだまだ足りない、ウエイトも食べる量も足りないと発破をかけられた。それでも増えなかった。ウエイトトレーニングでの重量もある一定のところまでくると一向に増えなかった。

とにもかくにもボクなりには体重を増やすことができた。そして日本代表にも何とか滑り込んだ。けれどもあの時期を振り返れば、納得のゆく走りができずにいつもイライラを募らせていたように思う。補欠ながらもW杯に参加した、あの頃だ。何かを引きずって走っているような重い感じと言えばいいのか。しかしこうした感覚は今になって初めて言葉にできただけで、当時は増えた筋肉をうまく使いこなせていないだけだという認識だった。つまり「使える筋肉」になるまでには時間がかかるというトレーナーの言葉を信じていた。身体の使い方についての考察が深まった今となっては、それは違うだろうと思う。「まるで何かを引きずるような感覚」は筋肉に頼る動きへシフトしつつあることの身体からのアラームだ。おそらく。

そこから現役を引退する2年前まではウエイトトレーニングをし続けた。当時のチームメイトはよく知っていると思うが、ウエイト自体はとても嫌いだった。ベンチプレスだって100kgを超えると途端に上がらなくなるし、スクワットも230kgあたりが限界だ。トレーナーが教えてくれるフォームを意識すればするほど上がらないような気がした。こう感じたのは、たぶんボクの性格による。バカがつく正直さというか、要領が悪いというか。

だって、トレーナーが指導する正しいフォームは「いかに効率よく筋肉を破壊するためのもの」。使う筋肉を意識させ、とにかく筋肉に頼った動きを強いられるわけで、もともと筋肉量が少ないボクにとってこのフォームは非効率でしかない。行えば行うほど重量が上がらなくなるのはだから当然だ。もっと横着すればよかったのだ。というのは、あまりフォームを気にすることなく「とにかくこの重量を上げればいいんでしょ」と開き直ってやれば、もしかするとよかったのかもしれない。そうすれば90kgを超えるような大型ウイングとしてぶいぶいいわすことができたのかもしれない。

でも今となってはそんなことしなくてよかったと思う。筋肉だけに頼った動きに快適さを覚えてしまうと(これはすなわち身体感度が致命的なまでに鈍感になること)、取り返しのつかないことになるだろうと思うからだ。たぶんケガのオンパレードになる。ウエイトトレーニングを最後まで好きになれなかったこのボクでも、筋肉だけに頼った動きからの脱却には手を焼いている。ここんところ、といっても約2年ほどだが、身体が動きたくてウズウズしてくるまでは本格的に運動しないでおこうと心掛けている。それはなぜかというと、本気で身体を動かす場面では昔取った杵柄でどうしても筋肉に頼る動きが出てしてしまう、そのことを自覚しているからだ。たくさんの怪我で歪んでいるはずの身体を休ませるという意味ももちろんあるが、どうやらこっちの理由で動きたくないと思っているようだ、ボクの身体は。それだけ隅々にまで馴染んでしまっているということ。当然だな、あれだけ必死になってバーベルを持っていたのだから。

なによりも筋肉だけに頼った動きというのは手応えがある。「ボクの身体が動いている」という強烈な手応えが。だから病みつきになる。でも、そこから動きの質を変化させるためにはこの手応えを手放さなければならない。むしろ手応えを感じない動きなのだ、いわゆる自然な動き(武術的な動き)というのは。言うなれば「手応えがない」という手応えを頼りにすることが求められるもの。ここがまさに武術的な身体の使い方とスポーツ的な身体の使い方が違いだ。これはとてもとても大きな違いだ。水と油にたとえても大げさではない。決して交わらない。

こんな時間にブログを書いているのは、ふと目が覚めて眠れなくなって、そのままベッドの上であれこれ考えていたら「そもそも眠らなアカンってことないやん。でもいつからボクはこんな思い込みをし始めたのだろう」と考えたから。それでそのまましばらく考えていると、あっ、あの頃か、と思い至ったわけで。ツイッターで夜中に仕事をしている人たちもたくさんいるんだということに最近実感したことも、今回の気付きを後押ししている。それから「健康行動学」という講義を持たせてもらったことがきっかけであれこれ勉強するようになり、社会に流布する健康概念はほとんど幻想ではないかと感じていることもそう。だから何時から何時までは眠らなアカンってこともないし、これを食べないとアカンってこともない。だからといって乱れた生活でも構わないということではもちろんなくて、自分の身体とじっくり対話することで健康は維持できるのだ、おそらくは。「○○したらアカン」という意識の縛りがもっとも健康を害するような気がするぞ、ボクは。

ここまで書いてみて改めて感じるのは、本当にラグビーをしてきてよかったということ。青春時代(って書くとちょっと照れ臭い感じがする)の19年間、ラグビーというスポーツに携われて本当によかった。今のボクはラグビーなしには存在しないわけで、この気持ちをどうやって表現すればいいのかは正直よくわからない。今日ここに書いたようなことは、ちょっと前までは後悔の念が入り交じるちょっとばかし苦々しい経験だったが、でも今はそう感じていない。「苦々しい経験ができた」ということ、そして「その苦々しい経験から今まさにたくさんのことを学んでいる」という喜びはおそらく何ものにも代え難いもの。この喜びはさらなる学びを呼ぶだろうから、考えれば考えるほどに未来は広がってゆく。掘り下げらればどんどん面白くなるだろうという予感のする経験が、ボクにはたくさん備わっている。そう思える今はたぶんとても幸せなのだろう。

それではそろそろベッドに戻ります。明日は1限から授業だ。