平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

無意識の中でのせめぎ合い。

ほんまにエエ天気続きだったゴールデンウィークが終わろうとしている。4月の終わりあたりに少し煮詰まっていた感じがあったのでこの休みはとことん緩めてやろうと、昔からの友人と会って酒を飲む機会をつくり、読む本もできる限り研究や講義とは関係のないものを選んだ。おかげで『1Q84』もあと残りわずかなところまできた(まだ読み終わってないのです・・・ホントに読むのが遅くなった)。やはりとてもオモシロイ。牛河が絡んできたことで物語全体の輪郭が浮かび上がり、これまで断片的だったものが一つの流れを形成するように整っていく。そんな気持ちになりながらBOOK3を読み進めている。相も変わらず一義的な解釈を拒む表現の連打だが、そのフレーズにグッと心をつかまれるから、だからオモシロイのであって、ボクが村上春樹という作家に惹かれているのはまさにこの部分だろうと思う。それほどたくさんの作品を読んでいるわけではないので村上春樹に関してはこれ以上の語りは自重するけれど、それにしてもオモシロい。

さて明日からまた大学が始まる。非日常性から日常性へと意識をシフトしないといけない。昨夜は久しぶりに朝まで飲んだのでこの時間になってもまだ頭がボーッとしてはいるが、そろそろモードを切り替える準備に入らなければならない。連日の外食におそらくボクの身体はややお疲れなはずなので、今夜は自炊だ。久しぶりに家でご飯を食べることの幸せは、ここんところの慌ただしくも楽しい食事から感じられるものとはまったく別次元のもの。だから結構自分でも好きな時間だったりするのだが、でも独りというのはどこか物足りないし、やはり味気ない。非日常性から意識をシフトさせ、身体モードを切り替えるという意味では、独り飯もそれなりに大切な時間だと前向きに考えることにしよう。

とにもかくにもこのゴールデンウィークはたくさんの人と言葉を交わした。いつもの懐かしい面々とも、久しぶりだよねという人とも、最近知り合って間もない人とも、初対面の人とも、話をした。短期間であまりにいろいろな人と言葉を交わすと、一段落してホッと気を緩めたときにボクはたいがい放心的になる。これまでを振り返ってみればそうなってしまうことがとても多い。なにかを解釈しようと努める自分がムクムクッと生まれてきて、そのなにかについて一所懸命に考えていることに、考えながらに気付くのだ。だから今もそんな状態。すっかり放置していたことへの後ろめたさを振り解いてブログを書こうという気になったのも、そんな事情からだ。

誰かに向かって話すことを通じて、自らの中に言語化されたくて待ち望んでいた思念にかたちが与えられる。相手との応答関係の中で自然と口をついて出てくる言葉はそのときまさに生成されたものであって、自らが口にする言葉を同時に聴くことで「オレってこういう風に考えていたのか」となる。相手を説得させようと予め用意されたプレゼンテーションとは大きく違う。

だから相手に応じて語り口が変わるのは当然のことで、誤解を恐れずに言い切ってしまえば会って言葉を交わした人数分だけの自分を発見することになる。それがあまりに短期間だとたくさんの自分を発見することになって、ちょっとした混乱がもたらされてしまう。あのときの自分とこのときの自分は明らかに帳尻があっていない、というようなことが無意識の中でせめぎ合う。そのせめぎ合いが次第に落ち着き、ゆるやかにまとまることでおそらく人格がつくられていくと思うのだが、たぶんボクはこのせめぎ合いが落ち着くまでに人よりも時間がかかってしまう(他の人がどのくらいの時間がかかるかわからないけれど)。むしろせめぎ合いの時間を楽しもうとしている節もあるから、なかなか厄介なヤツだなと今さらながらに痛感する。

あの自分もこの自分もその自分も、もちろんすべてが自分なんだけれども、誰の目にも明らかな一人の自分がボクの中に棲まわっているわけではないということだ。絶えず揺らぎ続けるようにして自我がある。どこか今の自分が自分自身にジャストフィットしていないという落ち着かなさが自我というものの正体で、その落ち着かなさにしか倫理的な態度は宿らないと、どこかの本に書いてあった。「自分は紛れもなく自分である」と信じてしまえる人は楽ちんだ。ただ、これまでの人生経験から導き出される実感としては、落ち着かなさが人間性をかたちづくるということにとてもリアリティを感じる。どこかで自分自身を疑っているボクがいてはじめて人間的な部分が表出するというのは、たぶん真だとボクは思う。

でもさ、結構しんどいよなあ、こういう考え方ってさ。ときどきこんな風に考えている自分自身がいやになったりもするんだけど、ただ「こういう風に考えている」という自分自身に気付いて、今自分が考えていることって間違ってないやんという確信が得られるから、これまた厄介なんだよなー。

ただ、こんな風に小難しく考える自分が好きか嫌いかと言えば当然のことながら好きなわけで、人間というものの存在を深く知りたければ避けて通ることはできない道程だろうと思っている。やっぱり人間を知りたい。それはつまり自分を知ることでもあり、まわりの人たちを知ることでもある。人間への理解を深めればおそらくいろいろなことが「わかる」ようになるはずだ。

好天に恵まれたゴールデンウィーク最終日、哲学的にかく語りき。