平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

あれもこれもすることの効用。

もしかして人間というものはいろんなことを同時並行に行っているときの方が作業能率は上がるのではないかと思う。研究会での発表内容を抄録にまとめることと、講義の準備と、もろもろの事務的な仕事と、『1Q84』の耽読と、愉快な仲間たちとの食事と、部屋の掃除や洗濯と、そして自分の研究などなど、やりたいこともやるべきことも混在している情況ではとりあえずひとつひとつを片付けていかなければならない。ひとまず立ち止まって考え込んでいる暇がないものだから、とにかく形になるまでは突っ走るしかない。するとそのようにして形になったもの、たとえば書かれたものであったり、学生たちへの提案であったり、食事をしながらのトークなどが、通りよく伝わっているような感覚がある。これはたぶんいい意味での「軽さ」が生まれたってことで、頭の中で必要以上にこねくり回されたせいで複雑さを増した言説とは対照的な、つまりは身体に直接しみこむ類の言説なのではないか。特に講義の準備に関しては「ああ、このくらいのまとまりでいいのか」ということに気付けてことでだいぶ楽になった。現に学生たちへの通りもいいし。

もしかすると何でもかんでも掘り下げグセのあるボクだからこそこう感じたのかもしれない。けれど、掘り下げなくてもよい物事を掘り下げてしまうと自我が大混乱に陥るのは自明だろう。話す方も聴く方も「えらいこっちゃ、わけわからん」の状態になる。これはまさに身をもって感じていることで、研究のためとはいえ何でもかんでも読んであれもこれも取り入れなければと間口を広げ過ぎると、ホントにわけがわからなくなる。研究者としての批判的な態度は持ち合わせてはいるつもりだが、気を許せばハッと引きこまれていたりする。それはたぶん本を読んだり人の話を聞くときの基本的姿勢が批判的になれば学べるものも学べないだろうと、ボクが心の奥深くで思っているからだ。最初からあげ足をとるような心構えでいてどうして何かをつかむことができようか、というのは揺るぎないボクの確信であって、だから身も心も開いた状態でいようと無意識に努めているのだ。あまりにそれが過ぎると何もかもが身体を通過してしまうから終わりのない混乱がもたらされて、オレって何してたんだっけ?と迷宮に迷いこんだような錯覚に陥ってしまう。この状態になればまあまあツラい。

いろいろなことを抱える、という情況に身を置けば一つのことを掘り下げている暇がなくなる。そうなると、この言葉がとても気になるんだけれどとてもじゃないが今はそこまで考えている時間はないので、とさらりとスルーせざるを得ない。それが全体としてみたときのいい「軽さ」になるのではと思う。たとえば講義ならば、全体としての流れが滞らずにすむ。だから話の通りがよくなるというわけだ。

一概に軽いものがいいというわけでは決してなくて、一つの物語としてパッケージしてしまうことと、とことんディテールに拘って研究することのバランスをとる上で、軽い方向に針が振れることがおそらく今のボクには好ましいのだろうということ。心のどこかで、何か一つのことに集中しなければいいものは生み出せないと頑なに思い込んでいる節があったということだろう。エネルギーを注ぎ込むべき対象を絞り込むことが必要なんだと。でもたぶんこの考え方は間違っている。少なくともボクという人間にはそぐわないものだ。手入れされ過ぎた道具がいざというときに使いものにならないように、あまりに言葉ひとつひとつを気にし過ぎれば上手く話すことも書くこともできない。だからといって手入れしなければパフォーマンスそのものが落ちる。このバランスが大切なのだ。うん。

考えたことを書いて話すという今の立場に求められるリズムというかペースがここにきてようやくつかめてきたということだろう。という得心があるあいだはしばらく今の感じで歩んでみるとするか。