平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「もうひとりの自分」からの呪縛。

運動伝承研究会での発表抄録を先ほど送信して今日一日やるべきことが終了。明日の講義の準備も終わり、思いのほか早く終われたことにたっぷりと解放感を味わっている。今日の帰宅は確実に遅くなると高を括っていたので、その気になればできるものなのだなと改めて実感。まずは抄録を書いて、それからこの講義の準備をこのくらいで終わらせて、次にこれを……ときちんと予定を立ててやらなかったことがよかったのだろうと思う。目の前にあるすべきことを一つ一つ片付けていこうという姿勢で乗り切れた。ごちゃごちゃと頭の中で考えることなく、すべきことの順番を決める程度にとどめておくことが結果としては効率的なのである。

ボクの悪い癖はごちゃごちゃと考え過ぎること。深く掘り下げるべきではないことさえも深く掘り下げてしまうこと。その結果、何が何やらわからなくなって、そのわからなくなったことすらも深く掘り下げてしまって、自己が無限後退して自信を喪失するのだ、たぶん。冷静に理解したところですぐに修正されるべくもないのだが、でも自らの思考の癖がわかっていれば某かの手を打てるわけであり、だからまあこうして言葉にできていることは喜ばしいことである。自らの判断能力を疑うとき、その判断能力を疑っている自己の正当性を担保することは限りなく困難だから反省はすべきではなく、無原則に生きることの意味はこうした無限後退から身を躱す方法だ、というようなことが確か『邪悪なものの鎮め方』の最後の方に書いてあった(うろ覚えだけれど)。1ヶ月くらい前にこの箇所を読んだ時にまさにこれは今のボクではないかと、まるで襟首を掴まれたような気持ちになった。以来、気がつけば再読するようにしているが、読み返すたびに「そうだよなあ」と納得する自分がいる。

そんなこんなでごちゃごちゃと考えながら行き着くのはやはりこれまでのラグビー人生のこと。これまではどこか否定的な気持ちであの頃を眺めていて、過去を否定することなしに困難な現状を乗り越えられないと決め込んでいたかもしれない。でもね、自らが歩んできた道を否定することなんてできやしないわけで、そんなことは今になって冷静に考えればわかる話なのだけれど、あまりに現状が困難であれば冷静になんてなれるはずもなくてググッと抑圧していたのだろう。ラグビー選手からの卒業というよりも離脱というかなんというか。体育会からの卒業というよりも抹消というか、叶わないはずの願望を抱いていたのかもしれない。根っからのラグビー選手なのに、体育会的な人間のはずなのに。

今のボクは第2の人生を歩みつつある引退後のスポーツマンでもあるわけで、この「第2の人生」という部分をことさらに自分の中で大きくし過ぎていたきらいがあるかもしれない。現役時代の経験を引っ張らず、ささやかな栄光にしがみつかないようには、とても強く意識していたし今もしている。その意識が知らず知らずのうちに「否定する」という方向に向かい、まったくまっさらの状態から人生を始めなければならないという強迫観念を作り上げた。その観念にがんじがらめになって自らを緊縛していた。たぶん、こういうことなんだと思う。

これまでの価値基準を根底から見直してやろう、自らの中にある体育会的な基準を客観的に判断しなければならないと、あまりに考えすぎた。こうやって書いててもしんどくなるほどにそりゃしんどいことをしてたんだなと思う。競争的環境に身を置くのは今となってはもう嫌だと思うけれど、でも今のボクはその競争的環境で育まれたからここにいるわけであり、その正否を判断するだけの成熟にはまだ至っていないのが現実だ。にもかかわらずそれを判断しようとしたわけだから知ったかぶり的な態度にもなるし、そうした態度をとっている自分に気が付いて、また傷ついたりもするわけだ。

いずれにしても思うのはスポーツ選手の引退後というのはなかなかしんどいぞということだ。もしかするとボクだけかとも考えたけれど、随分ずーっと考えたけれど、たぶんそうではないと思う。現役時代に輝かしい実績を残した人ほどに引退後に抱え込まなければない不安の種は大きい。不特定多数の人から脚光を浴びれば浴びるほどに「もうひとりの自分」が自らの心の中で知らず知らずのうちにつくられていく。引退後になればその「もうひとりの自分」はここにいる自分を蔑み、憐れむ。かつてのお前はこんなものじゃなかったよなと悪魔のささやきを繰り返す。でも、そんなのは勝手な思い込みに過ぎない。人として未熟だった過去の自分がつくりあげた「もうひとりの自分」が、シンプルで奥行きに欠けた物語を押しつけているに過ぎないのだ。

たぶんこれに気付くまでにかなりの時間を要したのだ。引退して早々には頭では理解していたのだが、その頭での理解がようやく腑に落ちた気がしている。やっと身体で実感することができたのである。「もうひとりの自分」なんかくそくらえだと、今になってようやくそう言える。

だからこれはラグビーがどうのこうのというのが問題ではない。まだ未熟なのにもかかわらずスポーツ選手というだけで周囲にチヤホヤされることが人生というパースペクティブで捉えた時にどれだけ心的負担が大きいかということなのだ。ほんとにしんどかったなー。今もちょっとしんどいけれどなんとかやっていけてるからまだマシな方なのだとは思うけども。

さて今日は書き終えたことの安堵感を携えて、スズランの湯へ行こう。心もカラダもリラックスさせることにします。ではさらば。