平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ツイッターとブログ。

更新頻度が落ちていることに開き直ってはいるけれども、さすがにこれだけ書かない日が続けば罪悪感が湧く。前回は身体観測を転載しただけなので実質的にかれこれ2週間以上も更新していない。書いていない。もしかするとこのまま書けなくなるのではないかという危惧を抱き始めたので、今日のところはとにもかくにも書くことにする。

「書けなくなる」ことへの恐れが更新へと駆り立てたわけだが更新に足が向かない理由は別のところにあり、そのあたりが自分自身のうちに幾許か整理されたがゆえに書き始める気になったのだろうと思われる。その理由の一つはツイッターである。

3月くらいから始めたツイッターには、その使い方に最初は戸惑いはしたものの今となってはすっかり楽しんでいる。ふと頭を過ぎった考えや言葉になりかけている感情を140文字という制約の中で表現する営みは生活のアクセントになる。その上、ごく私的な心の波紋を投げかける場所があるという(つまりそこには仲間がいることへの)安堵感もまた心地よい。はまり込むことへの無意識的な抵抗感があれば十分に楽しめるツールだなと今は思っている。

ボクが呟いている内容はというと、そのときどきに考えていることの中でこれだけは今すぐ言葉にしておきたいなと感じたことを語るように呟いている。さらに言えば、「ボクはこう考えるんだけれどみんなはどう思うんだろうか」という、新しく僕の中に兆したばかりで断言するには及ばない考えなんかをボソッと言う。レスポンスがあるときもないときもあるけれど、こうした未熟な考えを発信したあと数日は半ばドキドキしながら他の人の呟きを眺めてたりする。考える・感じる→発信→ドキドキという一連のプロセスを楽しんでたりして、ここらへんがボクの感じているツイッターの面白さである。

ちなみに、ボクがランチで利用する大学正門すぐそこにある喫茶店「サンフラワー」の日替わりランチの内容を呟いてもいる。おばちゃんが一人でやってる喫茶店で、手作り感あふれるまさに「日替わり」な感じがとてもよい。大概ひとりで食べるものだからその侘びしさを埋めるべく誰かに知ってもらいたくて呟き始めた。「ちょこっとついてる西瓜」や「漬け物とは別についてくるかぶらの酢漬け」が妙に心に沁みる。てなことをボソボソ呟きはじめたら共感してくれる人が何人かいて、「ああ、こういうのってなんかええなあ」と思ってからはできる限り呟くようにしている。あ、ちなみに今日は研究日なので大学には行きません。だから「サンフラワー」にも行けず。なので今日は呟けません、悪しからず。

ツイッターは面白い。使いようによっては面白い。でもね、やっぱりそこにはマナーがあり、そのあたりを弁えることでようやく楽しめるものだと思っている。今から書くことはマナーではないけれど、ボクの中でここだけはやはり譲れないよなと思っていることで、それは「ツイッター」の中だけの人間関係はあり得ないってこと。バーチャルではない現実の世界でその人と何らかの関係性が成り立っていることが、ツイッターをする上での大前提じゃないかと思っている。

全員が全員、何らかのかたちで現実的な時間を過ごしたことのある人でなければいけないということではない。ほとんど直接的には知らないけれど信頼できる人を介しての関係性があればそれでいい。むしろこっちの方が大切で、だからツイッター空間での広がりやつながりに心地よさを感じるのだろう。一般的には、不特定多数とのつながりには無限の可能性があるとしてそこに楽しみがあるという言説が広まっているが、ボクにはそのへんがよく理解できず、実のところそれとは正反対な意味合いで楽しんでいる。つまり現実世界とは違ったかたちで信頼できる人たちとつながり、さらにそのつながりが緩やかに広がるところに、大いなる可能性と楽しみを感じているのである。

さて、話は戻る。ブログ更新停滞の理由についてであった。

ツイッターをまだやり始めていない頃は、ふと頭を過ぎった考えや言葉になりかけている感情はメモ帳にミミズが這ったような字で書きつけられるかそのまま考え続けるかのいずれかであった。それらの考えや感情はすぐに日の目をみることなくしばらく寝かされる運命にあった。だからそれらはしばらく時間が経ってからブログという場である程度まとまった言葉の連なりとして記されることになった。でもツイッターを始めてからというもの、寝かすまでもなくすぐに言葉となり発信できるようになった。たぶんこれがブログ更新頻度停滞の理由の一つだと思われる。

ここまで書いて感じたのだけれど、もしそうであれば「ツイッター上で考えや感情を寝かす」と考えればよいのではないか。自分ひとりの中で寝かすよりも自分以外の人たちの前に晒すことでより熟成するのではないだろうか。何だかそんな気がしてきた。

ボクの中でツイッターツイッター、ブログはブログというはっきりとした区別をしていたこともあまりよくなかったことなのだろう。「ツイッターで一度書いたことだからわざわざブログで書くこともないだろう」「だったらもう少し違うことを書いた方がいいよな」って色気を出したことが自分で自分の首を絞めた。できもしないことやろうとするのはとてもしんどい。ひとりの人間が考えたり感じたりすることなんてそれほど変わるわけではないのだ。

"同じような考えや感情でもツイッターで表現するのとブログで表現するのとでは、その表れ方は異なる”

こうして言葉にすれば当然のこととして理解できるのに、漠然と考えているだけでは曖昧なままで「わかったふり」にしかならないのが不思議だが、とにかくそういうことだ。「ボクはこんなことを考えたり感じたりしているんだ」、その思考や感情を言葉にして社会に発信するツールとしてツイッターがありブログがある。そこに立ち戻ってまた呟いたり書き綴ったりしていこうと思う。