平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「ちょっとだけ」を追いかけて。

久しぶりにこのブログのアクセス数を確認してみたところ、ここ数日の間にたくさんの方が訪れてくれていることがわかった。なんでやろかと考えてみれば思い当たる節があって、そういえばツイッターと連携させたことを思い出した。ブログの更新が自動的にツイートされるようにしたのである。なるほどそれで新たに100人ほどの人がこのブログに訪ねてこられたのだなと納得する。

こんなにも更新していないこのブログに訪れて下さってありがとうございます。
最近はホントに気まぐれ更新なのでどうかご了承のほどを。

さてと今日は研究日。なので大学の研究室には行かず、自宅かその近辺で書いたり読んだり考えたりする予定。最低限すべきことは明日の講義の準備。春学期最後の一コマとなった「スポーツ文化事情」の内容を考えなければならない。最終講義ということでこれまでのまとめをするつもりだが、レポートを提出させたり授業評価アンケートを書いてもらう時間をつくらなければならないので、話をコンパクトにまとめようと思っている。

具体的に言えば、この15回の講義内容がどのような文脈に位置づけられるのかということ。つまり、スポーツというものを単にカラダを鍛えるための手段としてではなく一つの文化として捉えよう。そうすることで社会の仕組みや世界の成り立ちを考えていくための一つの視点となる。スポーツを通して社会や世界を知り、そして人間そのものへの理解を深める。これほどまでに私たちの身近にあるスポーツが及ぼす影響(いい意味でも悪い意味でも)を考察するためには、スポーツはあくまでも文化として捉えるべきである。スポーツが文化であるということを、なんとなくでもいいから実感してもらえたならそれで僕はうれしく思う。

そうしてまとめる前に一つ話をしておきたいテーマが「スポーツの現場でスパルタ教育はなぜなくならないのか」。先週の講義の終わりで少し話をし、この問いをじっくり考えてくるようにと指示したので、前半部分はこの問いを巡って話をしたいと考えている。

それにしても暑い。クーラーもつけずに玄関のドアと窓を開け放ち、短パン一丁でこうしてパソコンの前に座っているから当然といえば当然なのだが、それにしても暑い。けれど、つい数日前の湿気むんむんな気候から比べればどれほど過ごしやすいことだろう。ときおり吹き抜ける風が肌に心地いいし、背中をつたって流れる汗もどことなく爽やかだ。いくらか疲れ気味のカラダは左肩甲骨やや背骨よりのあたりに違和感を感じているが、これは今に始まったことではなく、思い返せば神戸製鋼に入社した直後に経験した「ホットショット」と呼ばれる神経症状の名残で今でもたまに症状が出る。ストレッチポールの上をグリグリすれば少し治まり、肩甲骨周りをぐるぐると動かせば幾分かは落ち着いてくる。

それから29歳の終わり頃、あれは確か2004年の11月だったと思うが、近鉄ライナーズとの練習試合で左肩を強打したこともおそらくは関係しているのだろう。相手とぶつかった瞬間、星がキラキラと目の前を飛び回り(そう、まるで漫画のように)、天地がひっくり返ったかと思うくらいの衝撃を浴びた。これまでに経験したことがないような衝撃だった。つまりそれは身体を翻して衝撃を吸収することができずもろにぶつかったが故の、言わば下手くそな身体運用が為せる業だったのだと今では思う。左肩を強打したはずなのにしばらくは首が回らずに苦労したことが思い出される。鞭打ちのような状態だった。たぶんこのケガも今の左肩甲骨の違和感に加担していると思われる。

そういった意味で身体というのはとても正直である。無理をすればするだけ身体には澱が溜まるようになにかが蓄積されていく。だから無理をしてはいけないのだが、ただ難しいのはどこまでが無理をすることなのかが明確ではないところだ。無理をするはるか手前であきらめてしまえば身体の錬磨は望めないからだ。“ちょっとだけ”限界を超えること。その連続が研ぎ澄まされた身体をつくりだすのである。

9年連続200本安打を記録したイチローが凄いのは、この“ちょっとだけ”を見極めているところだろうと僕は思う。「見極める」というのは少し表現が違って、あくまでも体感として知っているというところにある。“ちょっとだけ”限界を超えている状態は主観的にはとても気持ちがよく、その気持ちよさをイチローは身体との対話を通じて知っている(たぶん)。だから大きなケガをすることなくコンスタントに打ち続けることができる。200本安打を打ち続けることは真似できないにしても、9年連続ケガをしないということは、どの年代のどの競技レベルの選手でも目指すことはできるはずだ。

僕はこの違和感と向き合いながら自らの過去を振り返りつつ、これまで無反省的に繰り返してきた身体とのつき合い方を見直し、“ちょっとだけ”を探り続けていこうと思う。もちろんラグビーではなく研究においてだけれども。