平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「純粋経験」を考える、その4。

今日という一日は会議もなくずっと研究室でダラダラ読み書きしておりました。相も変わらず『善の研究』を読んでいるので、意識と無意識の境目をどのように表現すればよいのか頭の中がグルグルしております。自分で言うのも何なんだけど「純粋経験」という概念をおそらくボクは直感的にはわかっている。わかっているのだけれども、じゃあそれを誰か他の人に説明してみてくださいなと言われたらほとんど右往左往してしまうと思う。それはつまり本来の意味での理解には至っていないってことになるのかもしれないけど、ただこの「純粋経験」という概念を深くまで考えれば考えるほどにこういう理解の仕方もあるよねと思えてくる。「理路整然と説明できないけれどもボク的にはわかっている」という理解の仕方があるのだと思う、たぶん。

だって、西田幾多郎はこんなことを言っているのですから。

(ここから引用)
完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に、完全なる真理は言語にいい現わすべきものではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。
(引用ここまで)

おそらくボクの頭の中には「純粋経験」なる概念が芽吹いている。「こんな感じなんやろなあ」という自信なさげな理解ではあるけれども確実な手応えがある。ただそれを言葉巧みに言い表すことは到底できそうにない。「少なくとも今は」という条件がつくにしろ、説明はできない。西田幾多郎のこの言説からは、説明ができないという事実こそが完全なる真理を予感させるには十分であるが、まあこれは説明できない自分への苛立ちとその言い訳かもしれない。

ただだからと言って説明責任を放棄するわけにはいかないとも考えている。どうにかして運動主体におとずれる精神状態や意識現象をわかりやすい言葉で説明したいと思っている。ただこの西田の言葉からすればそれは叶わぬ願いに終わりそうなことも事実。でもね、おそらくはできる。説明の仕方を工夫すればできるのではないかと思うのだ。

その方法とは、「純粋経験」そのものをひとつひとつバラして記述するのではなくて、「純粋経験」なる世界があるのだということを具体的な場面をかき集めることで指し示すこと。主観と客観、理想と現実が解離せずに存在する世界、迫りくる刺激にただ反応するだけの一見他人任せのようで実は時の流れと一体化している境地、こういった意識状態というものがあるんだよということを記述する。そして、こうした記述を読んだ人がなんとなくではあっても「純粋経験」なるものに想像が届けば、あとは身体の深奥が理解するのを待てばよい。たぶんこういったものなんじゃないかと思う、「純粋経験」を理解するということは。言うなれば「純粋経験」そのものは「純粋経験」という世界でしか知ることができないというか。

またややこしいことを書いてしまった。まさに今のボクが思考中なのでこういった文章になってしまうのは仕方がないか。ややこしいのに最後まで読んで下さってありがとう。それでは皆様よい週末を~。