平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「プレーを象ること」身体観測第106回目。

 ラクロスに関わって今年で3年目。選手経験がないだけに技術に関するアドバイスには慎重になりながらも、身体の使い方やパスについては積極的に声をかけている。流れるようにつながったパスは見ていて気持ちがよい。たとえ素人目にもそれは美しく映る。また、現役時代に得意なプレーだっただけに、相手を躱わすときの身ごなしにも僕はこだわっていて、ステップワークにはどうしても意識が向く。華麗な走りは見る者を魅了する。練習を見ていて、思わず目を奪われて心が動かされたプレーがあれば間髪入れずに褒めるようにと心掛けている。

 ある学生に「今のはよかったよなあ」と声をかけたら、満面の笑みを浮かべて喜んでいた。また別の学生に同じように声をかけたら、「どこがでしょうか?」と逆に問い返された。ラクロス初心者の僕に見る目がなく、見当外れのポイントを褒めてしまったのかと自らを省みたが、そうではなかった。彼女は、一連の動きの中で具体的にどのプレーがよかったのかを詳しく知りたかっただけだった。

 自分のプレーの良し悪しを知りたがるのは選手の性分だ。『スラムダンク』には、主人公の桜木花道がビデオに撮った自らのプレーを観て愕然とするシーンが出てくる。頭の中に描いていたスマートさとは対照的に、まるで素人なシュートフォームに桜木は落ち込む。イメージと現実の相違。競技力を向上させたいと望めば望むほどに、この違いは選手の意識につきまとう。それを薄々感じるからこそ、その溝を埋めようとして自分のプレーを客観的に捉えようとする。

 上手くなってるかどうかがよくわからないという不安を選手は抱えている。この不安を少しでも和らげるにはやはり褒めるに尽きると思われる。プレーの良し悪しを適切な言葉で象ることも指導者の役割だなと、またひとつ気付かされた。

<10/11/02毎日新聞掲載分>