平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「つけるものか、つくものか」身体観測第108回目。

 スポーツが上手くなるためには筋力トレーニングが不可欠である。この考え方が社会全体に広がりつつある。端的に運動能力を上げるには筋肉をつければよいという考えが私たちの意識に根を張りつつある。

 筋肉はつけるものか、つくものか。「身体」の研究を始めてからずっと考え続けている問いだ。意図的につけるものか、それとも自然につくものか。「つくもの」であるという結論に達しながらも、まだ絶対的な確信をもてないでいるのがもどかしい。

 建築現場で資材を運び、高所を軽々と移動する人たちの運動能力は高い。そばを通りかかれば思わず見とれてしまうほどに軽やかだ。タンスなどの重い家具を手際よく楽々と運ぶ引っ越し屋の人たちの動きも然り。当然のようにあの人たちは筋トレなどしてはいない。スポーツ選手ほどムキムキではなく、むしろ細身に映るその身体は動きの中で自然に培われたものだ。

 かの長島茂雄王貞治は徹底的にバットを振り抜くことであれだけの実績を残したと言われている。スポーツ科学に基づく筋トレをせずとも、後世にまで語り継がれるほどの華麗な動きを披露し、未だ破られていない通算本塁打868本という記録を残したという事実がすべてを物語っていよう。筋肉はあくまでも動きを通じて身についていく。これを疑う余地はない。

 身近なところからアスリートの世界まで、少し見渡すだけでも筋トレの必要性に懐疑的なまなざしを向けることは簡単である。にもかかわらず「不要である」とはっきり断定できないのは、僕自身が筋トレ経験者だからである。華奢だった僕がラグビー選手としてやってこられたのは筋トレのおかげかもしれないという後ろめたさ。これがまだ払拭できない。だからしばらくはこうした揺らぎのうちに、スポーツ界を席巻する筋肉偏重主義に物申していくつもりだ。

<10/11/30毎日新聞掲載分>