平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

研究室の掃除と絵本。

クリスマスイブの今日は昼過ぎから大学に来て研究室の掃除に勤しんでいた。デスク周りに積み上がった書類や本を整理し、無ジャンルに雑念としていた本棚もある程度までは整えた。すっきりさせ過ぎるにはまだ学期が終わっていないので時期尚早。だから、「ある程度」まで片付けたというわけだ。埃をはたいて拭き掃除をして掃除機をかけた。

予定ではそのあとに身体観測の原稿を書く予定だったのだが、どうも筆がうまく運べそうにないので(実際には“指”なのだが)ツイッターを覗いたりつぶやいたり、パラパラっと本を読んだり。ゼミ生が残していったポテトチップスに目が止まってつい袋を開けてしまったり。そういえば逆立ちもしたっけか。その最中にお隣の先生が訪ねてきて笑われたっけか。てな具合でグダグダとしてるうちに行き着いたのがブログなのであった。ここんところ更新が滞っていたこともあるし、書くしかないぞと思い立ったわけである。

なんだか11月に入ったあたりからはあっという間だったような気がしている。そのせいか昨日で年内の講義を終えた途端にちょっとした放心状態に陥ってしまって、昨夜からずーっと心がフワフワしている。ちょっとゆっくりしたいというのが本音である。他の人はどうなのかわからないけれど、まだまだボクには講義の準備にある程度まとまった時間と労力が必要になる。研究も覚束ない中で競技経験を追いながらそれを言語化する作業はなかなか思ったように捗らないのだ。たぶん鈍くさいんだろうなとは思う。

ボクには考え過ぎるきらいがあり、そのことは十分に自覚している。けれど自覚しているからといってうまくそこから抜け出せるかと言えばそうではない。「考え過ぎている」状態から抜け出すためにまた考える、といった無限ループに陥ったりもする。そんなときってかなりの緊張状態を強いられるわけだから、お酒でも飲んでちょっと緩和しないとずっぽりと闇にはまりこんでしまう。別にお酒を飲まなくてもちょっとだけ生活のペースを落とす必要があって、そうでないと言葉に言葉を上塗りしてしまい、結局のところ煮詰まってどうしようもなくなってしまうのだ。ボクは。

でもまあこんな自分もどこか愛すべきところがあるよなと、半ば呆れかえりながらも少しだけうまくいなせるようになってきたなと自分で自分を思えるようにはなった。もっとさらりと考えてみようと努めはじめてたりもする。というのは最近、絵本の奥深さに気付いたからだ。とくに五味太郎の絵本はとてもおもしろい。そして深い。頭ではなく胸のあたりがじんわりにじんでくるような読後感がある。ほんわかした感じのあの絵には思わず微笑んでしまうしね。難解な単語が連鎖する哲学書を読むこともまた楽しいのだけれど、それとは違った楽しさや面白さが絵本にはある。

この身にしみている経験や実感は実のところシンプルなんだけれど、そのシンプルさには直接触れることはできなくて、言葉をなぞってグルグルと複雑に思考することでしかおそらく到達できないんだろうと思う。なぜそうなるかについての思考を繰り返すことでしか、身体的な実感は言語化することができない。そうして言語化された言葉は至ってシンプルなもので、いわゆる詩的な表現を纏う。文学的な表現になる。こういうことなんじゃないかなと。

さーて、そろそろ研究室を後にするとしよう。結局のところ原稿は書けなかったな。