平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

とにかく「楽しむ」こと~鈴木大地&池田久美子の言葉から。

そうか、「楽しい」という言葉を軽々しく使うことはよしとされていないのだな。

現役を引退してからスポーツや体育の世界に身を置くようになって気がついたことである。「スポーツはまずは楽しむことが大切だ」という言葉遣いで話をしてもその本質がうまく伝わらないことにずっと違和感があった。意図が十分に伝わっていないのではないかという危惧がどうしても払拭できず、だからたぶん伝わっていないのだろうがそれはどうしてだろうかと考え続けていた。そうこうしているうちに思い当たったのは、「楽しい」にはどうやら「不謹慎」というニュアンスがつきまとっているということ。上手くなるためには辛く苦しいことを乗り越えなければならないのに楽しもうなんて甘っちょろいことを言うなんてとんでもない。こういった考え方がどよーんと漂っていることにようやく気がついたのであった。

というわけで今日は「楽しさ」についてちょっと考えてみる。

ボクが言わんとするところの楽しさの本質を掘り下げるために、まずは2008年元旦の毎日新聞に掲載された「アスリート新春座談会」から、1998年ソウルオリンピック100m背泳ぎで金メダルを獲得した鈴木大地氏と、女子走り幅跳びの元日本代表選手井村久美子氏(旧姓は池田)のやりとりを紹介する。

(ここから引用)
池田「…変に五輪を意識しないで子どものころの純粋な気持ちで出たいと思います。楽しく跳ぶことを思い出してきたので『不安を打ち消すのは自信だな』と本当に思っています」

鈴木「その『楽』という言葉がすごく難しい。僕はソウル大会で金メダルを取った後に米国に武者修行して、すごく楽しかった。それで同じ字だけど、僕は楽をして金メダルを取ろうと間違えて失敗をした。『楽しい』の本質が分かれば、いい感じでいけるのではないか」

池田「楽な感じではなく、何て言うか楽しい。いつもプレッシャーがかかる中で楽しむのは難しい。『楽しむ』という言葉が合うのかわからないけど」
(引用終わり)

読んでもらえればわかるように話しながら2人が思い描いている「楽しさ」は、「苦しさの対極にあるものとしての楽しさ」ではない。池田氏(井村)は「子どものころの純粋な気持ち」と表現しており、鈴木氏は「『楽』ではない本質的な楽しさ」について言及している。これをボクなりに言い換えてみると、「身体をあるがままに伸び伸びと使えた時に感じるなんともいえない昂揚感」ということになる。

大きなプレッシャーを受けながらオリンピックという大舞台で結果を残すためには、身体のパフォーマンスを最高潮にまで高めなくてはならない。自分だけでなくサポートしてくれる仲間のためにも記録を残さなくてはいけないし、勝利を収めなくてはならない。大舞台になればなるほどに、個々の欲望や思想が入り込む余地は少なくなり、「そうしなければならない」という使命感が湧いてくる。こうした使命感のもとになんとかして結果を残さなければと考えて、ずーっと考え続けてようやっと辿り着く心境が「楽しむ」なのである。

だからこの「楽しむ」には「楽をする」とニュアンスがない。だから「不謹慎」などということはてんでお門違いである。プレッシャーがかかる情況でいかにしてパフォーマンスを発揮するかってときの心境としての「楽しむ」には、むしろ迫りくる重圧やそこから生じる不安をはねのける苦しさがついて回る。いや、たぶん主観的にはかなり苦しいはずである。そこのところのニュアンスを、池田氏は「『楽しむ』という言葉が合うのかわからないけれど」と言っているのだろう。鈴木氏に至っては、そこを勘違いしてただ楽をしてしまったがゆえにうまくゆかなかったと語っているのだと思われる。

まことに逆説的だが、「楽しむ」を追求することは「苦しい」のである。

ただ、確実に身体の内奥が喜んでいる感覚としての「楽しさ」がそこにはある。先ほども言ったように、「身体をあるがままに伸び伸びと使えた時に感じるなんともいえない昂揚感」である。この昂揚感は、言葉での表現がおぼつかない。細胞一つ一つが喜びの雄叫びを上げているようなそんな感覚で、時間の感覚が消滅し、一人だけ異空間に連れ去られたように錯覚することもある。人間として、いや生き物としての喜びというか、身体がその持てる力のほとんどを発揮したときに生まれる感覚とも言えるのかもしれない。

こういう風に書けばちょっと大げさすぎやしないかと思われるかもしれないけれど、ただこういうことって特定のアスリートだけに生じるものではなく、たとえば野球だと今までストレートしか投げられなかったのがカーブやフォークも投げられるようになったり、サッカーなら利き足と逆の足でも自在に蹴られるようになったり、ピアノならより難解な曲を弾けるようになったりと、ふと目を凝らせば日常生活の中にある「できなかったことができるようになった」経験から誰しもが感じていることなのだろうとボクは思う。とくに幼い子どものころは、背丈ほどの段差から跳び下りることができたり、誰とも手をつながずに一人で階段を上り下りできたり、ごく日常的な出来事からも感じているはずだ。こういうちょっとした「楽しさ」を積み重ねていくことが、結果的に身体の練磨になるとボクは思う。

「苦しさを乗り越えなければ上達はしない」という指導者は多い。確かにその通りだと思う。「楽をして」上達することはあり得ないとボクだって思う。しかし、ただ苦しさを乗り越えれば上達するということもまたあり得ない。正確には、ある程度まで身体能力が高まることはあっても、心身ともに成長を果たすことは絶対にあり得ない。100%の苦しみだけに満ち満ちた練習を乗り越えても決して上達はしない。

まずは楽しさを感じること。何度も言うけれど「身体をあるがままに伸び伸びと使えた時に感じるなんともいえない昂揚感」を繰り返し身体に沁み込ませることが何よりも大切だと思う。そこからさらなる上達を目指して、言うなればもっと高いレベルで昂揚感を感じたくなって練習に励む上では苦しいことがたくさんある。でもこの苦しさは傍目から見た苦しさでしかなく、やってる本人は嬉々として取り組んでいるはずである。少なくともボクはそうだった。

ラグビーって傍目から見たら痛そうでしょ?確かに痛いのは痛いんだけど、それ以上の気持ちよさがそこにはあって、その気持ちよさを感じるためには多少の痛みや苦しみは何の障壁にもならなかったりするのです。主観的には何にも苦しくない。そういうものなのです。

だからスポーツはまずは楽しむものです。とにかく楽しければなにをしたっていいとボクは思います。楽しいから一所懸命にやれるんです。だからこれからも「楽しい」という言葉を口酸っぱく言い続けようと思います。