平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「身体で聴く」身体観測第118回目。

 いい音で音楽を聴くことがとびきり好きな先輩がいる。ある時、厚かましくもその先輩の家に邪魔してボサノヴァを聴かせてもらった。耳の奥ではなく胸のあたりで音が鳴っているような奇妙な感覚が新鮮で、とても不思議だった。同じ曲でも音が違えばこれほどまでに印象が変わるのかという驚きを今でも鮮明に覚えている。iPodや市販のコンポの延長上にはない完全に未知なる音は、僕を興奮させるには十分であった。

 つい先日その先輩に誘われ、音好きな仲間たちとともにいい音を聴かせるとあるバーで飲むことになった。席についてまもなく、誠に奇妙な感覚がこの身を襲う。どこで音が鳴っているのかがよくわからず、音の直中に身を置いているような感じ。音が全身を駆けめぐり指先にまで行き渡ってジンジンしているような感じ。自らの話し声が邪魔に感じられるほど静寂を求める感じ。とにかくふわふわして心地よいのである。

 正直なところ、いい音がこれほどまでに身体を貫くものだとは思わなかった。音というものは耳で聴くものだと高を括っていたがそうではなかった。身体全体で感じるものなのだ。その振るえや響きを細胞レベルで聴き取らなければ本当の音色というのは味わえない。たとえば料理は、彩り豊かな盛りつけ、立ち上る湯気や香り、素材の食感など、味覚だけではなく五感のすべてを使って味わい尽くさなければ本当のおいしさはわからない。音楽もそれと同じで、耳だけでなく身体全体を澄ますことでしか本物のよさには出会えない。

 目で見る、耳で聴く、鼻で嗅ぐ、口で味わう、手で触れる。五感を明確に識別して把握することは物事を思考する上ではとても便利だ。だが、まさに感性が働く生の現場において感覚なるものはいかなる識別をも馴染まない。ただ感じるしかなく、ただ感じるだけでいいのだと思う。

<11/04/19毎日新聞掲載分>