平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「ハサミを使うこと」身体観測第119回目。

 新聞記事を切り抜く際にはいつもカッターナイフを使うのだが、あるとき近くにハサミが置いてあったのでそれを使うことにした。いつもなら新聞紙を広げ、デスクを傷つけないように雑誌を敷くなどして四辺をなぞればそれで終わりだが、ハサミだとそうはいかない。まずは目当ての記事に最短距離で届かせるために、上下左右のどの辺からハサミを入れればよいのかを考えてから切り始める。記事にたどり着いた勢いそのままに1辺を切り終えると、次は新聞紙を90度回転させて次の辺にとりかかる。切り終えるとまた回転。この動作を繰り返さなければうまく記事は切り抜けない。また、乱暴に扱えば切り口がギザギザになるので、ある一定の丁寧さで指を動かす必要もある。


 とにかく不便であった。デスクを傷つける心配はないが、やはりカッターナイフの方が便利である。やや乱雑に扱っても切り口は直線的になるし、何より作業時間が短くて済む。手際よく行うならもちろんカッターだ。ただこの不便さ、なぜだかよくわからないけれど懐かしい感じがした。インクで黒くなった指先も、悪くない。


 聞くところによれば就学前の子どもは最初からうまくハサミを使えないらしい。糸を切ろうとしても捩れてしまい、刃と刃の間に挟まる。それが練習を繰り返すうちにやがてできるようになるのだという。大人にしてみれば難なくこなせる動きも、子どもにとってみれば必ずしもそうではない。「鉛筆で書く」、「お箸でつかむ」という動きもそうだろう。


 それなりの難易度が要求される道具を使う。それはつまり不便さと向き合うこと。道具が要求する動きを習得しようとして身体は錬磨される。できないからこそできるようになるための努力を積み重ねて、僕たちは様々な動きを身につけてきたのだろう。ちょっとした不便さは歓迎したいものである。


<11/05/17毎日新聞掲載分>