平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ブログとツイッターの違い。

それにしても本当に書けなくなった。いや、書かなくなったというべきか。ブログの更新が滞っている理由の一つにツイッターがあるのは間違いない。140字以内という制限はあるものの、連続してつぶやけばそれなりの内容を書き綴ることができるわけで、ブログ並みの長文は無理にしてもある程度は思考中のあれこれがまとまってゆく。たぶん、それで満足を得ているのだろうと思われる。

「物事を考え始めるきっかけ」は突然やってくる。大学に向かう車中やベランダに出てキャンプ用のイスで微睡んでいるとき、はたまた講義後に研究室でコーヒーを啜っている最中などにふと浮かんだりする。そして知らず知らずのうちに思考に耽っていて、ハッと我に返って慌ててメモするというのがこれまでだった。それからしばらく頭の片隅に引っかけておくからあるとき無性にブログで書きたくもなるし、書きながらにまた少しだけ中身が煮詰まり考えが深まる。そうしていつも何かを考えている状態にボクはいたのだと思う。

ただ昨年にツイッターを始めてからというもの、こうした習慣が変わった。つまりメモする代わりにつぶやくようになった。物事を考え始めてすぐの状態で「少しだけ」考えられるようになったのである。この「少しだけ」をよしとするのかどうかに見解の違いはあるだろうが、少なくともこの「少しだけ」がボクをブログから遠ざけたように思う。

うん、たぶんそうだな。

そもそも今までずーっとラグビーをしてきたものだから、考えることにあまり慣れていない。いや、考えることは好きで、どうでもいいような些細なことを考え続ける癖は昔からあったが、論理的に思考することはどちらかと言えば苦手である。論理的に組み立てていっても、結論に至る少し前で「やーめたっ、このくらいにしといたろ」と考えるのを辞めてしまいがちである。たぶんこの癖はスポーツ選手に全般的に当てはまるような気がしていて、その理由は、身体実践の場での論理的思考はときにパフォーマンスを阻害する方向に働きがちだからである。

たとえば、パスの仕方やステップの際の足の運びについて、ガチガチの論理で理解していたとすれば、言葉での説明にどうしても意識が張り付いてぎこちない動きにしかならない。「相手を見てスナップを利かせながら薬指と小指で押し出すように、さらには相手の存在を気配で感じながらここぞというタイミングでパスする」という言葉での説明は、かえって動きの邪魔をする。言葉での理解、つまり論理的な思考は頭を落ち着かせるも、身体のパフォーマンスにそのまま寄与するとは限らない。

うまく動くためには頭での理解を一旦カッコに入れるか、意図的に消滅させなければならず、だから卓越したパフォーマンスを幼少のころから発揮してきたスポーツ選手は、この習慣を早い段階で身につけているものと思われる。指導者からの言葉を半ば聞き流すことでパフォーマンスが向上するわけだからそれは必然である。だから論理的に思考を組み立てていっても最後の最後で腰砕けとなるのは、スポーツ選手の特性ではないかと考えているのである。

これは、周りを見ていてもそう感じるし、ボク自身を外から眺めてみてもそう思う。まあ、思い込みに過ぎないかもしれないけれど。

最後の最後で確固たる結論を出すことをほとんど反射的に嫌がる。これはアスリートに特有の思考癖ではないかとボクは考えているのだがどうだろう(共感するとか異論があるという人は是非ともコメントを頂きたい)。

だからといって開き直るつもりもなく、ましてや卑下するわけでもない。むしろ研究者としては克服すべきものとして自覚しており、なんとか腰砕けにならないように努力しているつもりなのだが、ふと気を許したときに「このくらいでまあええか」と幕を下ろしてしまいそうになる。論理的に思考するって事は本当に難しいものである。

で、この最後の最後で「まあええか」と投げてしまう思考癖。これが見事にツイッターというメディアに合致した。最後までじっくりと考え続けなくともある程度の思考があればそれなりのことが書けてしまう。それをいいことについ100%の満足感を覚えた自分がいて、だからブログでこうしてじっくりと思考しながら書くことをしなくなったのだ(たぶん)。タイムライン上の大半の方々はツイッターというメディアの特性を理解した上で、つまり140字以内(×数回分)で表現できる事象と、そうではなくじっくりと思考しなければならない事象を弁えておられるから問題ないにしても、ボクにとっては小さくない問題だったのだろう。

論理的に思考することの訓練を受けたこともなく(いや、大学に通っていたのだからボクにその気がまったくなかっただけなのだが)、絶えずグラウンド上でのパフォーマンスを最優先させてきたことの影響がここにある。だからこそラグビーでそれなりのところまでやれたのだし、その部分を否定するわけではないのだが、ただこれまでそうしてきたからこれから先も同じように振る舞うことだけはしたくない。というか、それではすべてのことが立ち行かないわけで、これまでの経験を言語化していくにあたってはきちんと論理的に思考することを癖づけなければならないと思う。

だからブログは書かなくてはならない。というように結論づければお堅い義務感まみれになってしまいそうだが、決してそんなことはなく、やはり書くってことは楽しくてとてもスリリングである。夢中になって書き上げた文章をあとから読み返してみると、そこには思ってもみなかった自分自身を発見することも多い。へー、オレってこんなことを考えていたのかと、日常の中で感じていたモヤモヤにくっきりと輪郭が与えられてスッキリするのだ。

だからと言ってツイッターをやめるわけではない。やめるわけではないけれど、その特性を理解した上でお付き合いしていかないといけないなあと改めて感じている。ツイッター的な思考とブログ的な思考は、意識の射程と掘り下げる深度が違い、元スポーツ選手としてのボク自身の思考癖はツイッターというメディアにものの見事に合致する傾向にある。

ツイッター上で済ませてしまえる内容とブログでしか深められない内容。この違いに想像を及ぼしつつ、また改めて書くことと思考することに向き合ってみたいと思う。