平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

まことの「経験」とは?〜『臨床の知とは何か』

なぜだかわからないが今日は雨だと決めつけていたものだから、朝目が覚めて窓の外を見ると曇りがちながらも晴れているのに気がついて気分がよくなる。たとえ雨が降ろうとも、木曜日は研究日なので大学に行かず自宅やその周辺で本を読んだりして過ごそうと決めていたが、晴れてくれればジーパンとTシャツ姿で散歩を挟みながら喫茶店のハシゴができるのでやっぱり好ましい。 遅めの朝食をとりながら新聞を読んで家を出る。まず向かったのはドコモショップ。つい2ヶ月ほど前にまったく電源が入らなくなって修理に出したばかりなのに、今度は折りたたんだときと閉じたときに急に画面が真っ暗になってシステムが再起動するようになった。だから、ポケットに入れていた携帯電話が鳴って「はいもしもし」と出るとすぐに電源が落ちる。すぐに再起動されるのでそこからコールバックすればなんとかなるのだが、如何せん面倒くさいし、相手方には電話に出てすぐに切らなければならないような緊迫した状況にいつも僕がいるような印象を与えることになるので、早々に改善しなければと足を運んだわけである。 何のことはない。前回と同様に代替え機を渡されて修理に出すことになった。「同機種で同じような故障は起こってないんですか」と訊ねてみても「調べてみますね」と連れない返事をされた挙げ句結局は返事なしであった。今回も前回と同様に突然不具合な事態に陥ったので、原因は特定できないままである。大学の同僚には「何かカラダから負のオーラが出てるんとちゃいますか」と僕そのものが携帯電話を狂わせているように言われたが、ここまで短期間に故障が続けばもしかするとそういうこともあるかもしれないと思われる。ドライアイスのような勢いで目に見えない何かが放出されているとすれば僕に近づかない方がよいだろう。ふん。 なんのこっちゃ。 修理には1週間から2週間ほどかかるらしいのでその間は代替え機で凌ぐことになる。でもこのところはメールもほとんど届かないし電話も仕事上の着信だけなので、電話を取っても電源が切れなければそれでいいのである。使い慣れない機種だからメールをするのも覚束ないので、これまで以上に無愛想な人間になることは間違いない。なので絵文字が少なかったり内容が簡潔すぎることもままにあるでしょうから、その旨、先にここで断っておきます。どうぞ皆様ご海容下され。 さて、ドコモショップを出た後はブラブラと阪急岡本辺りまで歩いて久しぶりに喫茶店【春秋】に入る。セミストロングという少し苦めなコーヒーと抹茶アイス付きのプレーンワッフルを頼み、一息ついた後は読みかけの本を開いてひたすら読み耽る。開いたのは『臨床の知とは何か』(中村雄二郎岩波新書)。近代科学が置き去りにしてきた「臨床の知」について書かれてあるこの書は、これから僕がやろうとしていることの道筋を明るく照らしてくれるものであると直感している。この本を読んでいると、スポーツ哲学などと嘯いてみたところでいかに僕がものごとを知らないのかを眼前に突きつけられて「あいたたた」となることしきりなのだけれど、「知らないことがわかる」ことのワクワクさも同時に去来するからたまらない。内田先生にしても甲野先生にしても、つまるところ言わんとしているところは同じであって、どこがどのように同じであるかを言い表すことはできないが、とにかく「同じであること」は断言できる。こういう言い方をすれば乱暴な括り方をするなあという反論が予測されそうなものだが、僕自身は乱暴などとは思っていない。そもそも「同じ」だと感じることがなければ僕自身の思考の俎上に上るはずはなく、「あーそういうこともあるかもね」と半ば白け気味に興味を失うに留まる。向いている方向が同じでなければ僕の中に眠る知的好奇心に火が点くわけはなく、「同じ」であるからこそ「まさにそう言うことを僕は言いたかったんだよ!」という昂揚感が生まれるわけである。そして、「同じ」だからこそ、それぞれが主張されている思考の癖やニュアンスの「違い」について事細かに述べることができるのである。 大学院生のときに先生から『哲学の現在―生きること考えること』(岩波新書)を勧められて読み、なるほど身体についての見識が高まったとは感じてはいたが、あれから少し月日が経ってみると、改めて中村雄二郎氏が言わんとしてることに僕の理解が追いついてきたような気がしている。『感性の覚醒』『共通感覚論』が僕にとっては必読の書であるという確信が沸々と芽生えてきている。これから身体に、また身体性という問題に取っ組み合っていく者として読まなアカンと思う。 まだ読み終えてはいないが、この『臨床の知とは何か』を読む中で思考の地殻変動を感じたのは「経験」についての解釈が変わったことである。 僕はこれまでのラグビー選手としての経験を大切にしたいと考えていた。僕の身体にはそう簡単に言語化され得ないさまざまな身体知が眠っていると自負しており、それをどうにかして言葉として形にしていきたいという思いがある。しかしながら、経験に囚われた知というものには客観性が伴わないという、抑圧的なムードが学問の世界にはある(少なくとも僕にはそう感知される)。書物や実験データを確固たる根拠にしなければ客観性は保たれないという牙城はなかなか崩せないぞと、学問の世界に身を投じてからはずっと感じていたのである。 どうにかして「経験」というものを形にできないものか。ここは譲れない、譲ってはいけないという矜持みたいなものがあって、だから論文という形で研究成果を表すことに対して日に日に懐疑的にならざるを得なかった(少し論点はずれるが、論文という形で身体について述べることには限界があると甲野先生も著書の中でしきりに書かれている)。それでも学者の世界で生きていくためには論文は書かなければならないわけで、そこらへんで思考の壁にぶち当たっていたのである。 その壁をブレークスルーできそうだと思うに至ったのは「Ⅱ経験と技術=アート、2経験・実践と技術を顧みる」で、そこでは「経験」たるものが、近代科学の発展が置き去りにした「臨床の知」を再構築する際には重要になると説かれていた。世の中の現象や事物をみるとき、観察者は自らの「経験」をないものとして考える。主観的=「経験」のような軽々しい解釈が為されており、まるで鬼の首を取るように主観性を排除する傾向にある。この世に存在するはずもない「純粋な観察者」という立ち位置を無反省的に絶対視する人たちが占める学問的世界を憂慮し、生活世界における知というものを改めて考え直すことを中村氏は指摘していると思われ、そこに「経験」たるものの見直しが為されていたので僕としては少し楽になったというわけである。 しかしながら当然のように、ただ単に「経験」を有するだけで事足りるわけではない。「経験」が臨床の知を再構築するための条件として中村氏は次のように述べている。 ___________ すると、われわれ一人ひとりの経験が真にその名に値するものになるのは、われわれがなにかの出来事に出会って、<能動的に>、<身体を備えた主体として>、<他者からの働きかけを受けとめながら>、振舞うことだということになるだろう。この三つの条件こそ、経験がわれわれ一人ひとりの生の全体性と結びついた真の経験になるための不可欠な要因である。 (中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波新書63頁) ___________ この3つの条件を端的に表現することが許されるならば、他者からの働きかけに応じながら自らすすんで現実に身を投じるということであろう。そうすることで、客観性に乏しく傲慢さを覗かせる主観性を孕んだ経験が、「生の全体性と結びついた真の経験」たり得ると、中村氏は主張しているのである。スポーツ選手が引退後に「オレは現役時代こんなに凄かったんだよね」というときの武勇伝的言説は、真の意味で「経験」ではないということになる。 どうにも決着をつけることができずにモヤモヤとしていたものが幾許かすっきりとした。哲学をするということは、こうした思考プロセスそのものであり、おそらくは今回のように少しずつ少しずつ歩んでいく他はないのであろう。思い返せば大学教員になる昨年までは、おそらくそんな風に書物を読みながら思考に耽っていたのだろうが、いざ大学教員になってそれらしく振る舞わなければならないという気持ちを強く持ちすぎたために、こんな初歩的なことすら意識の外に置かれてしまったのだと思う。オリジナリティとは何たるかの理解もなくオリジナリティを求められたり、客観性という言葉をまるで聖なる剣のように振りかざされ過ぎて迷いが生じていたのだろう。 いずれにしてもそんな停滞時期を超えて、少し思考のエンジンが掛かりだしてきたようなので、このままの調子でしばらくはすすんでいくことにする。 ではおやすみなさい。
臨床の知とは何か (岩波新書)

臨床の知とは何か (岩波新書)

  • 作者: 中村 雄二郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1992/01
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