平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

読んだり書いたり、はぐらかしたり。

「それなりの決意と忍耐をもって勉学に励め!」とか「お前たちのことを思って怒っているんだ!」とか、ただ嗾けるだけで学生たちが勉強をするようになり、受講態度もよくなるのならば、教育って何ぞやという問いはまったく意味を為さなくなる。ただ苦しさを乗り越えるだけで成長できるほど人間は単純にはできていない。個々人の性格や思考ペースや興味や関心などに心を配りながら、同じ内容の話をするにしても切り口を変えて言葉を連ねないと伝わるものも伝わらない。こんなことは敢えて言うまでもなく自明なことだと思っていたけれど、どうもそうではないみたいだ。

これみよがしに否定してみせるのもそれは不安の表れだったりするのだろう。こちらとしてはこう考えている、というのを示しておいて、あとは受け手のあなた方で判断してもらえばよい。という態度でいられないのは心の中が不安でいっぱいだからだろう。過去を振り返ればボクにも思い当たる節があるし、つい気を許せば他者からの言葉に対して「でもね…」と頭から否定してしまうことだってままにある。そんな自分にあとから気付いて自らの狭隘さにガックリくる。そんなことの繰り返しだ。ただ「ガックリくること」を自覚できているだけちょっとはマシなのかなと思ったりもする。

言葉というのは本当に怖い。暴力よりも痛いものだ。何かの拍子でダイレクトに心に突き刺さってしまうと全身に痛みが広がり、その痛みにしばらく引きずられることになる。その痛みはカラダで感じる痛さとはうって変わって、迷いや不安や恨みからくる漠然とした浮遊感みたいなもの。心の中で次々にネガティブなイメージが広がっていき、それがやがて身体のあちこちに悪さをほどこして暴力性をかたちづくる。なんとも厄介な痛みなのだ。

言葉はだから大切に、丁重に扱うべきなのだと思う。とは言え、過保護なまでに大切にし過ぎると滑らかに言葉が連ならなくなり、思考も停滞する。軽快なリズムで言葉を紡ぎながらも、でもひとつひとつの言葉を大切に考えるというアクロバット的な所作が求められるところに、言葉を扱うことの難しさはある。

ときに言葉は滑る。しまった、と思ってももう遅い。でも、滑らせないことにはうまくリズムに乗れないという体感もそこにはある。ひとつひとつの言葉、ひとつひとつの文章に心が囚われれば、つまり居着いてしまえば書いたり話したりはうまくゆかない。いや、書くには書けるし話すには話せるのだが、自分を含めた読み手の心にやんわりと届けられるようなテクストには到底なりえない。

あまりにも言葉に無頓着な文章や話が耳に入ってくるとたまに心が暴れ出すことがある。そうなるのはボク自身の性格でもあるのだろうし、外部から到来する邪悪なものをうまくアースできない未熟さによるものだ。そんなことはわかっている。わかってはいるのだけれど暴れ出す心をどうしても止められない。本当にもどかしい。ただこのもどかしさは、やがていつかはなんらかの達成をもたらしてくれるかけがえのない果実だと信じている。だからこのもどかしさを抱えながらに、これからも読んだり書いたり、はぐらかしたりしていこうと思う。