平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

2020年4月16日。

午前中は近所の公園まで家族で散歩。僕が娘を連れて池の周りを歩いているあいだに、妻が生活必需品の買い物をささっと済ませる。春の陽気が心地よく、やや塞ぎがちだった心もすこしは解けたように感じられる。

 

午後は自宅の書斎にて仕事。ずっとパソコンに向かってて、ただ今18時すぎ。せっかくゆるめたからだがこの数時間でまた凝り固まったようでツラい。ずっとデスクワークが苦手だったとはいえ、たった数時間でここまでからだが強張るほどだったかなあと振り返ってみると、そうじゃない。ここまで背中が張ることはなかった。だから「座りっぱなし」が原因じゃなさそう。元ラグビー選手だからそれなりに鍛えてきたし、歳を重ねたとはいえそんなにヤワじゃないぞという自負もある。

 

たぶん「自粛疲れ」が本格化してきている。不自由を強いられる生活をどうにかこうにか送っているあいだに心が疲弊していて、無意識的にストレスがここまでからだを緊張させている。心が弱ればからだもその強度が下がる。逆もまた然りで、からだが弱れば心はその耐性が下がる。心身が互いに関係し合った結果として「この私」がいるわけで、こんなふうにあらたまって言わなくてもおそらく多くの人が生活のなかで実感していることだとは思うが。


外出がままならないという事態は、心にもからだにも少なからずネガティブな影響を及ぼすものなのだと、あらためて実感する次第。心とからだが同期的に削られていく今の状況では、心とからだの健やかさを維持するためにはなんらかの工夫を積極的に行わなければならないのだろう。

 

さて、どんな工夫をしようか。これについてはお腹が空いたのでまた明日以降にでも書くことにする。

と書きつつ気がついたのだが、ここでこうして日記なるものを書くということもまた「工夫」のひとつなんだと思う。居ても立ってもいられず数日前に再開したのは、胸のうちを言葉で表現することで、積み重なるストレスを放出できると察知したからだろうと思う。

さあ晩ご飯だ。ビールも飲もう。

 

2020年4月15日。

オンラインでの遠隔授業の準備で日々が忙殺される。課題の設定や資料の作成、ゼミ生への連絡などなど、やるべきことが山積していて、あっという間に1日が過ぎ去ってゆく。その合間を縫って心のケアをすべく読書を進めているのだが、午前中に読み終えた『これからの大学』(松村圭一郎著・春秋社)はまさにズシンと心に響く一冊だった。

おこがましいのだけれど、僕が大学教員になってずっと疑問に感じていたことと、その疑問に従って思索を続けてきたことが、平易な表現で見事に表現されている。そう感じた。教育と研究は切り離せないものだとか、限界の向こう側に辿り着くためにはどうすればよいのかだとかが、文化人類学を入り口にしてとてもわかりやすく書かれている。これから慣れないオンライン授業をするというタイミングで読めたことがうれしい。松村さんが指し示してくれた道を確認しながら、遠隔授業に取り組んでいきたいと思う。

そういえば今日は確定申告を済ませた。ひとつ肩の荷が降りてホッとしている。「マスク2枚に466億円」とか、限定的な休業補償とか、現政権の税金の使い道に怒りが収まらないなかで書類を作ったものだから例年以上に疲れたものの、やるべきことをひとつ終えたのでひとまずよしとしておく。

リーダーシップのないリーダーが率いる集団がどれだけ悲惨かを今まさに経験している。ラグビー選手だった時代に嫌というほど経験しているだけに免疫はあったものの、今経験しているのはスポーツの話ではない。スポーツなら試合に負けるだけで、生活の一部であるスポーツ活動における苦難にすぎないが、今直面しているのは僕たちの生活に直接関わる話だから頭が痛い。たまらない。日に日に心が怒りで満たされ、それに伴ってからだが硬直してゆくのがわかる。

深呼吸をして、ストレッチや腕立てやスクワットなど室内での運動を心がけながら、心身を整えなければと思う。

 

2020年4月9日。

今日も大学に来る。

 

新型コロナウイルス終息の見通しが暗いなか、うちの大学もネットを通した遠隔授業を行うことになった。とはいえ、僕を含めたほとんどの教員はそのやり方に習熟していない。Skypeとかzoomとか、一度は耳にしたことがあっても使ったことはないし、それを授業で使えといわれてもなかなか難しい。なので、学内のこういう分野に詳しい教員がワーキンググループを作り、大学の教職員に向けて研修会を実施してくれたのだった。

 

少人数で行う演習はzoomによる双方向的なかたちで行い、大人数の講義はMicrosoft Teamsというソフトを使ってほぼ通信教育のような授業を行う予定だ。研修会自体がzoomで行なわれたので、演習がどのような雰囲気になるのかのイメージはひとまずつかめたように思う。ただTeamsについては細かい作業を覚えなければならず、一度研修を受けただけですべてを理解するには至らずで、学期開始までに習得すべく勉強しなければならない。

 

緊急事態宣言が5月の連休まで続くので、そこまでのひとまず2週間は自宅および研究室のパソコンからの授業となる。脱線も含めて対面での講義の臨場感を大切に、今までPower Pointをなるべく使わずにやってきた僕だから、なんとも慣れないのだけれど、こんな事態だから致し方ない。ないものねだりをしたところでなにも変わらないのだから、これを機に遠隔授業の利点を見つけるべく積極的に授業づくりをしていこうと思う。教育効果を損なわないよう細心の注意を払いながら、遠隔授業だからできることとその効果について、身体性の観点から観察してみよう。

 

おそらくウイルス感染拡大は2週間では収まらないだろう。ということは遠隔授業を行う期間はもっと延びる。春学期の講義や演習はすべて遠隔授業になると思っておいた方がいいだろう。予期せぬ事態の到来は不安を増大させ、モチベーションを高めるのに一苦労するからだ。一度切れてしまった気持ちを立て直すのは容易ではない。予測不能な未来とうまくつき合うためには、どう転んだって対応できるという心構えが必要だ。その心構えを作る意味でも、実際に対応できるだけの準備が求められる。今のうちに課題の設定や参考資料の整理を、コツコツとやっておきたい。

 

そういえば通勤途中に『世界哲学史2ー古代Ⅱ世界哲学の成立と展開』(ちくま新書)を読み終えた。全8巻のこのシリーズは、2020年1月から毎月1冊発刊されている。昨年の終わりごろに読んだ、出口治明『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)ですっかり哲学史に興味を抱き、もともと哲学好きだったこともあって、すぐにこのシリーズを手に取ったのだった。洋の東西を問わずいつの時代も人々はよりよく生きるために思考を働かせてきた。それがリアルに伝わってきて、とても熱い。哲学史が醸し出す壮大な物語に触れることで、この今の、二進も三進もいかない現状で知らず識らずのうちに溜め込んでいるストレスが発散できる。そんな気がしている。

明日の楽しみは買い置きしてある『世界哲学3』だな。

ではそろそろ帰路につくことにする。早く娘の顔が見たい。

2020年4月8日。

昨日は自宅で娘をみながら仕事をしたが、今日は大学に。Skypeでの会議を終えたあとは、今後の予定を見据えた上での会議を2つ済ませる。今後の情況次第では予定変更が余儀なくされることがわかっていながら、いくつもの議題について話をするというのは想像以上の疲労感がある。うちの大学でも、明日からは原則的に在宅勤務ということになった。とはいえ数々の資料が研究室にある以上、すぐにそれが可能かというと難しい。大きな鞄を持ってきて、それに重要な資料を詰め込んで持ち帰ることをしなくてはならない。こんな事態だから致し方がないし、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐためにもそれは必要なことだ。

 

緊急事態宣言が出され、それ以前よりもこの身を取り巻く空気がよりいっそう重苦しくなったように感じる。閉塞感が漂う日々は、まだしばらく、少なくともここから1ヶ月は続くだろう。ストレッチや家の中でできる運動をすることで、せめてフィジカルとしてのからだの緊張は取り除いておかなければならない。娘と遊びながら、その心身の成長を見守るのと同じく、自らのからだの内側を観察したい。からだが未発達な娘は家の中で走り回る速度も上がり、足指をうまく使いながら方向転換をスムースに行えるようになっている。今まさに成長プロセスを歩む娘のからだは、いつか僕が歩いてきた道をゆっくりと進んでいる。それに思いを馳せながら、いつしか錆びつつある自らのからだを今一度点検してみるのも楽しいはずだ。

 

というかすでにそんなふうに観察して今に至るわけだが、あらためてそれを楽しむ態度を大切にしようと思う。波打つ感情も、暴走する思考も、つまるところ「このからだ」から生まれるのだから、まずはからだを健やかに保っておく努力は、今もっともしておかなくてはならないことだ。狭い室内でどういうことができるのか。ストレッチポールの活用やヒモトレ、腕立て伏せや体幹レーニングなど、単に筋肉を維持する、鍛えるという目的ではない運動のあり方を模索してみよう。

 

2020年4月6日。

またここで日記をつけ始めようと思う。新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない今、ものすごいスピードで日々が過ぎ去っているように感じるからだ。もうすぐ2歳になろうとする娘がいるので家族と過ごす時間を大切にしながら、できる範囲での仕事になるべくゆったり励んでいるものの、やはりウイルスの感染拡大を防止するためにあくせくしてしまっている。

 

日ごとに更新される情報にキャッチアップすべく、ネットやテレビや新聞をチェックしているのだが、先行きが不透明だけに確たる情報が得られず、どの情報も「今のところはこうである」という域を出ないから、どうしても徒労感が残る。世界的なウイルスの蔓延だから、そもそも確たる情報など誰も出せるはずがないのはわかっている。専門家も政治家も、刻々と変化する事態を把握しようと努め、把握した事態をどのように乗り切るかの対策を各所で行っている。そうして発せられる細切れの情報をかき集めて、日々、どのように行動すればよいのかを考えているわけだが、いつも、いつのときもウイルス感染への心配が拭えないからどこか焦っている自分がいる。

 

まるで自動車を運転するのと同時並行で故障した箇所を修理するような、アクロバティックな心理状態だ。こんな状態では、日常生活の一コマ一コマが記憶に止まることなくただ流されていくような無常感が漂う。人生を充実させるのに必要な僕の意識は「ウイルス禍」に奪われてしまっていて、だから見過ごしてはいけない日常のちょっとしたよろこびや悲しみを見過ごしている気がしてならない。

 

だから日記を書くことにした。その日にしたことや感じたことをただ羅列するだけの、わざわざ人に話すようなことでもないことばかりを記すことになるかもしれないけれど、それでもいいと思っている。僕自身が自身の胸の内を整理しておくためのささやかな日記だから、読むに耐えないと感じる人はさっさとスルーしていただきたいと思う。

 

ならば誰にも読まれないところで書けばいいではないかと思われるかもしれないが、少しでも他者の目を意識することでその内容は丁寧になるから、あえて公の場でこうして書いてみたい。もしかすると、この駄文が例外なく緊急事態を過ごすみなさんのちょっとした息抜きになるかもしれないし、その蓋然性は大いにあると思う。

 

にっちもさっちもいかない現状ではそもそも人と話す機会が減っていることもあるし、編集者の目を通さず日常の何気ない一コマを綴ったほぼ会話のようなテクストに、なんとなく肩の力が抜けるってことはありそうな気がする。鋭利な言葉が飛び交うツイッターに辟易としている人が、少しでもホッとできるようなテクストを目指して、思い立ったときにダラダラ、ではなかったツラツラと書いていこうと思う。

 

今日は大学に出勤した。うちの大学は4月27日から春学期が始まるのだが、しばらくはネットを通じた遠隔授業を行う。ZOOMってやつを使うらしく、研究室のパソコンからきちんとつながるかどうかのテストをするためだ。思いのほか簡単ですぐに繋がり、数人の先生と話をした。資料の提示も画面を切り替えればできるようで、なんとなくではあるが遠隔授業のイメージがつかめた気がする。今週末には大掛かりな研修が予定されているので、それを受ければさらにこのイメージは広がるだろう。慣れない遠隔授業をしなければならないってことに抱いていた不安は、ある程度は払拭できたように思う。今さらだが科学技術の発達というのはすごいものだ。

 

以後は僕以外には誰もいない研究で本を読んだり、これからの予定を手帳を開いて確認したり、朝日新聞で連載中の『知って楽しむラグビー学』の原稿を手直ししたりした。職員さんや企業で働く人たちに比べて、研究室が与えられている僕は職場環境に恵まれている。電車通勤だから大学を往来する際の感染リスクはあるが、そこさえ気をつけていればなんとかなるし、幸いなことに通勤ラッシュの時間帯を避けることもできる。新開地駅から乗り換える神戸電鉄はいつもガラガラに空いているからありがたい。手洗いとうがい、そしてマスク着用さえ怠らなければ今のところは大丈夫だろう。

 

事態が終息するまではとにかく本を読む。そして書くことにしよう。ウイルス関連の情報を収集しながらも、今の自分にできるこのことに集中したい。あらゆることを根本から考え直さなければならない今を、自分が試されていると捉えたい。

 

【世界 2020年2月号】。

早いもので年が明けて半月が経とうとしている。ついこのあいだまで正月気分だったのにいつのまにか日常の生活が戻っている。いくつかの新年会を終えて、また、あの、いつもの慌ただしい日々に身を浸している。休みすぎてからだが鈍るよりも定期的に読んだり書いたりしている方が性に合っているから、それはそれでよい。読まず書かずの日々ではふとした拍子に思考が暴走するし、読みたくて書きたくてからだが疼くから、まあ休みはほどほどの方がいい。研究する時間が欲しいとか忙しすぎるとか、ツイッターで愚痴ってはいるものの、やはり僕は仕事が好きなんだなあとあらためて思う。

 

さて、前回に告知していた対談の様子が掲載されているので紹介しておきたい。

 

 

『オリンピックへの抵抗』という特集が組まれ、その中で「貶められるスポーツ、その再生の道へ」というテーマで一橋大学の尾崎正峰先生と対談をした内容が収められてます。年始早々から各メディアでは今夏に東京で開催されるオリンピック・パラリンピックの報道が繰り返されているけれど、今一度、開催の是非から問い直すべきだと思う。商業主義に毒されたスポーツの未来は限りなく薄いし、社会的弱者に犠牲を負わしてまでも開催するべきではない。スポーツに健やかさを取り戻すために、東京五輪の開催返上までも見据えて多くの人に現状を知ってもらいたいと願う。J.ボイコフ氏へのインタビューと本間龍氏の論考と合わせて、ぜひ読んでみて欲しい。

今、ここで踏ん張るために。

毎日が目まぐるしく過ぎてゆく。この土日も、合格者懇談会(来年度に入学する生徒を集めた親睦会)と入試業務で、両日ともに朝から晩まで働いた。空き時間にもゲラ(先月、岩波書店からの依頼で一橋大学の尾崎正峰先生と東京五輪に関して対談したもの)を直し、メールに返信したり、卒業論文に赤入れしたりと、休日なのにやること山積でちょっと息が詰まっている。そのせいか、月曜なのにすでに週末間近のような疲れがからだを襲っている。ふう。

仕事をいただくのはとても有り難く、メールや電話での突然の依頼であってもよろこんでお受けしているのだけど、ここまで忙しいとつい愚痴っぽくなる。ならば断ればいいじゃないかと思われるかもしれないが、その勇気がないからこうしてアタフタしているのである。

この疲れはたぶん、多忙なだけではない。

SNSをはじめとするネットから望まずとも飛び込んでくる様々な情報に、うんざりしているという節がある。我が国の政治は一体どうなっておるのだと、通勤電車の中でスマホを凝視する乗客たちに囲まれながら、ちょこちょこ憤っているのだが、これがボディブローのように精神を蝕む。嘘、欺瞞、嘲笑、冷笑、揶揄。直接的に自分に向けられたものでなくとも、赤の他人同士のそうしたやりとりにほとほと嫌気が差す。

「赤の他人」というのはちょっと違う。というのは、政治が私たちの生活をその根底から作るものである以上、それは他人ではない。その意味で、政治に関わる方々を他人であると区切ることはできない。僕たちの意を汲むべき立ち場にいる政治家の、ちょっと信じられないような立ち居振る舞いを見るたびに、やるせない怒りを覚え、だからといってどうすればよいのかがはっきりとしないから、やがて落胆し、でも生活があるから目の前のことにとりあえず注意を注ぐしかないと、思考に歯止めがかかる。

これを繰り返すことに僕はどうやら疲れているようだ。

義憤を感ずるのは、とかくしんどい。ともすれば、それをさほど感じない人たちからは冷笑されたりもするから、つらい。でも、ここ、踏ん張りどころなんだよね。

昨今の政治状況に嫌気が差したり、多忙を言い訳にそれから目を背けると、確かに楽にはなるのだけど、そうすればヤツらの思う壺。のらりくらりとやり過ごされて、この社会はいつのまにかその土台を切り崩される(すでにかなり侵食されている)。ある特定の集団だけが利益を得るような不平等がまかり通ることになる(こちらもかなり進んでいる)。

どんな目が注がれようともアカンことにはアカンと言い続けなければ、と思う。でもこれ、ホント、体力いるんよね。知的体力もそうだけど、フィジカルなそれも必要となる。ということは、どこかからエネルギーが漏れ出ているかのように、どうも気力が湧いてこない今の僕のからだは、総合的な体力が消耗しているといえるのかもね。

だからこのご時世、誹謗や中傷を恐れずに自らの意見を発信している人たちは、ホントにすごいと思う。彼らのみなぎるエネルギーを見習いつつ、疲れているなどと弱音を吐かずに僕も僕なりに考えを発信していきたいと思う。

常識の底が抜けつつある今だからこそ、できることがある。それは僕のような一介の研究者であってもそうで、研究を生業としている以上、知り得た情報をつなぎ合わせ、思考を重ねてたどり着いた考えは広く社会に放たなくてはならない。あるいは知り得た情報そのものもまた、発信しなくてはならない。それが研究職というものである。社会的に優位なポジションを確保するためだけにその技能を発揮する同意業者に、とびきり冷ややかな目を向けながら。

さて、そろそろラグビーの練習が始まる時間だ。準備をしよう。

ちなみに冒頭に書いたゲラは来月発売の雑誌『世界』2月号に掲載されます。また日が近づいたらアナウンスしますね。たくさんの人にご笑覧いただけるとうれしいです。