平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

鏡をピッカピカにすると。

目覚めると爽やかな秋晴れ。布団を干そうと狭いベランダに出ると、そこから見える南側の敷地では住宅建設に勤しむ人たちが、今日も朝からせっせと働いている。
基礎工事のときはガガガガ、キュイーンなどの騒音が気になったものの、今は職人さんの手作業に終始しているためにそれほどうるさくはない。布団を干しながらふと作業中の人たちに目をやると、働く姿はええなあと不思議に微笑ましい気分になった。機械音のあまりの不快さに耳栓までしていたあの頃を思えば、誠に現金なものである。

さてさて、そこから家を出る。
ガソリン入れて洗車して、芦屋三八通りまで水を汲みにいって、シャツをクリーニングに出して…と、一通りの用事を済ませて帰宅。
するや否や掃除機をブイーン。
そして全身鏡を磨く。
いつも感じることなのだが、鏡を磨いて透明感が増すと気持ちがスッキリとする。
「なんでやろか…」と考えるもすぐに答えが見つかるわけもないが、このスッキリ感を探ってみたくなったのでちょっと書いてみることにする。

鏡は、自らの姿を視覚的に捉えることのできるほとんど唯一の道具である。
毎日その鏡を覗き込んで、自らの頭髪や装いをチェックしてから家を出る。
それは言い換えると、「他人の目に写る自分」を確認するということである。
もちろんのことながら、トイレに入って手を洗うときや駐車中の車の窓ガラスにふと写った姿にハッとしたりと、自らの姿を見る機会は家を出た後にも訪れるし、そんなときはなぜだが「ドキリ」としたり「ホッ」としたりするが、一日の途中で目にする自分の姿は、あくまでも「目覚めた後に初めて確認した自分の姿」を準えているだけであり、だから「ドキリ」や「ホッ」なのだと思う。

寝て起きる度に人は変わると養老孟司は言う。
こうした感覚を僕は実感としてすごくよくわかる。
ところどころ記憶を無くすほどに大量のお酒を飲んで這いずるようにベッドに入り、朝目覚めた瞬間にここはどこだろうと感じたことが、これまでにも幾度となくあった。
飲み過ぎたために目覚めが悪く、頭が痛いわムカムカするわ、もう二度と酒は飲まんとこうと儚い誓いを立てたりして、歓迎すべき過去ではもちろんないけれど、このように昨日が遠い昔のように感じられる経験は、おそらく、寝て起きると人は変わるという実感をお酒が拡大しているに過ぎないだけであって、人は皆、お酒の力を借りずとも寝て起きる度に何かが変化しているのではないかと思われる。

池谷裕二によれば、私たちが夢を見るのは、脳の中で記憶の整合性を確認しているかららしい。
全く関係のない知人同士が仲良く話している夢を見たりするのは、整合するかどうかを試すために、文脈を無視して記憶と記憶を繋いでいるからなのだという。
そうすると、自らが既に記憶している、つまり既知である内容しか夢に出てこないのはいわずもがなで、フランス語を話せない人がフランス語で夢を見ることはないのもそのせいである。

寝ているあいだに記憶と記憶を繋いでいるのだとすれば、目覚めた後の自分には何かしらの変化が生じていると考えても差し支えないような気がする。
さらに付け加えると、記憶の中には、「無意識の中に蓄えられた記憶」もあるわけで、寝ているあいだに潜在的な記憶がポコポコと呼び起こされているとも考えられよう。茂木健一郎には目覚めてすぐにパソコンを開く習慣があるというが、目覚めた直後には昨日の自分では思いもつかなかったであろうひらめきが生まれることをおそらく彼は知っているんだと思う。
知っていてもそう簡単にできることではないけれども(どうしても出発ギリギリの時間まで寝てしまう)。

寝て起きると人は変わる。しかし、自分は自分でしかない。
自分が自分であるという儚い実感は、かけがいのない身体を感じることでかろうじて繋ぎとめられている。昨日と同じように少しだけ腰に痛みを感じる身体を実感することにより、自分が自分であることを思い出したりする。そして、その身体を他者からのまなざしとしての視覚で確認するために人は鏡を覗き込み、相も変わらず昨日と同じような立ち居振る舞いの自らを見て安堵感を得る。
生まれ変わった自らを鏡に映り込んだ自分の姿を見て実感するのだとすれば、より鮮明な映像として取り込んだ方がいいに決まっている。
だからスッキリとしたのである。

ものすごく強引に導き出したようだけれど、ここまで書いてみて妙に納得している自分がいる。
よし、これからは鏡は綺麗にしておこう。