平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「何のために」と言われても。

ここんところ、なんだか揺れ揺れである。
修論で頭の中がこんがらがっているのは仕方がないにしても、何かをやろうと行動を起こすときにはその目的や意味を問うてしまう自分がいて、もう何が何だかわからなくなることがときどきあってその度に揺れ動いているのである。

「何のために?」という問いは、行動そのものを味気ないものにさせるには十分過ぎるほどの問いである。
「何のためにラグビーしてきたのか?」と訊かれたら、
『んなもんわかりまへん」やし、
「何のためにブログに書いているのか?」と訊かれても、
『んなもん知らん、ほっといてくれい』である。

書きたいから書いているのだし、ラグビーに関しては、やりたいからやっていたのかどうかすらはっきりしないままにやってきただけである。
確かにラグビーはオモシロかったし、どんちゃん騒ぎのできるかけがえのない友人たちをはじめとするたくさんの人たちと出会うこともできたけれど、やっぱりそれはどう考えても後付けの物語に過ぎない。

「オモシロかった」もしくは「オモシロい」という感情すらも後付けのような気がしていて、ラグビーの現役人生を終えたからこそ湧き起こった感情ではないかと今は思えるのは、とにかくラグビーに浸りきっていた頃はオモシロいかオモシロくないかという感情が入り込む余地がないほどにどっぷりと浸かりきっていて、私たちが生きていくのに必要な酸素がこの大気中に含まれていることを常日頃意識しないのと同じく、ラグビーをすることが当たり前に当たり前なことになっていたからである。

その当たり前なことがすっぽりと抜け落ちてしまい、そうして欠落した部分には中学高校生への指導や身体性やスポーツ教育についての研究が収まっているわけで、振り下ろす拳が空を切り続けるような、どうしようもなく手応えのない感覚はないわけだけれど、19年もの時を経て身体化された習慣は強固なものであり、おそらく僕が自覚していないところできっちりと体内時計が機能しているのだろう。
ちょっとまえに患ったあり得ないほどの腰痛も、ここんところは風邪を引いたわけでもなく(いや、引いているのかもしれないが)体調がピリッとしないのも、おそらくはこうしたことが影響しているのかもなと思う。

やはり身体は頭がいい。
僕が忘却の彼方に置き忘れていたことも、身体は律儀に繰り返している。

目的を考えるのはあくまでも頭である。
言動や行動に理由や理屈を付けたがるのは頭の仕業であって身体ではないのだから、ただ身体の赴くままに行動すればいい、ってことになるのだけれど、しかしながらそう単純な理路で身体が動くはずもなく、こうして考えていること自体が頭の仕業であってしかも頭も身体の一部である以上は、頭か身体かの二者択一的選択は現実的ではない。

頭を含めた身体からの声を聴く。
これに尽きると僕は思うのだが、身体のことを論じ始めるとどんどん抽象的な思考の迷路にはまり込んでしまうのは仕方のないところ。
思考に思考を重ねるのは僕は大好きなのであるが、読む人にとってはたまったものじゃないだろうからこの辺で切り上げることにする。

つまりは何が言いたのかというと、何のためにもならずに非生産的なことであっても気にしたらアカンなという、自分の戒めを書きたかったのでした。

ここまで書いてみてふと浮かんだ一節を最後に引用して筆を置くことにする。

「ふたたびボードレールを引けば、「己の孤独を賑わせる術を知らぬ者は、忙しい群衆の中にあって独りでいる術をも知らない」。意味のあることしかできないという無能力もあることを、忘るべからず。」(鷲田清一『ことばの顔』 38頁)