平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

<先生>と「先生」

自宅でゆっくりPCを開くのはなんだか久しぶりなような気がする。
前回の更新が13日だから、これまでの僕の更新頻度からすればそれほどほったらかしにもしていないんだろうけれど、とても久しぶりにここで書くような気がするのは、やはり大幅な環境の変化が影響しているんだろう。

講義の準備、論文コリコリ、ラクロス研究、SCIX事務職&ラグビークラブ指導に会議やなんやらで、3月までの生活とは一変した毎日を送っている。
とくに講義の準備には時間がかかって、講義ノートを書いただけでは不安になって何度も読み返すものだから、講義のある日は一日中その講義のことを考えている。
とは言ってもほとんどが実技指導で、それほどは考えることもないのだけれども、
なんせ慣れないものだから絶えず反芻しておかなければ気がすまない。

ん?気がすまない?
いやいや、たぶん気が小さいのである。たぶん「間」が怖いのである。

それでも2週間が過ぎて各講義2回ずつが終えた今は少しだけ余裕が出てきた。
1回目に比べて、なんとなーくではあるが講義のペースつまり90分という時間の流れが身に沁みてわかるようになってきた(ような気がする)。
そもそもがノートとにらめっこして、ストレッチに10分、準備には5分、ドリブルシュートとフリースローに各10分、それでチーム分けをして試合などと
(あっ、バスケットボールね)決めたとおりに講義が進むはずもない。
なのに、せこせことシミュレーションを繰り返しては
時間内にできるかどうかに心を砕いていた。
さらにはシラバスに沿うようにして「やらねばならない」とも、
どこかで思い込んでいた節もある。

あー、ちっちゃ。
「教育ってこういうもんでしょ」と偉そうに宣っていたかつての自分を思い返すと顔から火が出るほどに恥ずかしい。
やっぱり「現場」には「現場」でしか感じることのできない問題がある。
ということはイヤというほどわかっていたつもりでいたのだが、
どうやらまったくもってわかっていなかったみたいである。

「子どもを前にして初めて親になれるように、
学生を前にして初めて先生になれるのではないかと思います。
あまり焦らずに身体に気をつけて頑張ってください。」

入学してすぐの頃にある方からいただいたことばがふと頭を過ぎる。

大学に就職が決まってからというもの、
「来年度から大学の先生になります!」
と、周りの先輩方や知人や友人にちょっと得意気な気持ちで報告していた。
自らを名乗るときに「大学の先生です」と言えることの安堵感、
つまり社会の成員として胸を張れることにホッと一息ついていた。
透かしがかった自分の存在が鮮明に感じられるようになりつつあったのだから、
その頃から「僕は先生になる」という自覚が芽生えていたことは紛れもない。
教壇に立つ自らの姿を想像しては、
「あの話もしよう、この話もしよう、むひひひひ」だった。

でもやっぱり想像は想像でしかなかった。
想像というよりも妄想に近かったのかもしれないけれど。

かつて僕が楽しげに妄想していたのは社会的立場としての<先生>。
そして、現在直面しているのは生身の学生を前にした「先生」。
当然のように<先生>と「先生」はぜーんぜん違う。

あの人のことばはなるほどこういうことだったのかと、
まさに今、痛烈に実感しているのであった。
あまり頼りがいのないまだまだ駆け出しの先生ではあるが、
こういったことだけはしっかりと僕自身が学んでいきたいと思う。

タックルは相手を見て頭を上げてしっかりと肩を当てて怖がらずに入るもの。
「そんなこと言われたってやっぱり怖いねん、先生どうしよ?」
そんな声を受け止めることから教育が始まるんやと思う。

ああ、なんて難しいことなんだー。
「気合いだー、気合い!」ですますことができればとても楽なんだろうけれど、
当然のようにそんなわけにはいかないのである。