平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

流れに身を委ねているとさっぱりわからない。

内容盛りだくさんの1週間が終わって、

また新しい1週間が始まろうとしている。というか始まった。

月曜日がやってくるのがわかると気持ちがピリリとする、

日曜日の夜のあの感じが今はとても心地よい。

また仕事が始まるから月曜日は来てほしくないというネガティブな緊張感ではない、

適度に張りつめた感じが心身に一本の筋を通してくれる。

どうも今はそんな感じがするのである。

 

昨年を思い返してみればこのように感じるのも当然なのだろうと思い当たる節もある。

昨年はほとんど学生という身分で日々を気楽に過ごしていたことはこの上なく楽しかったし、束縛された感じがなく弛緩した状態で興味のあることに没頭できる喜びを身体全身で享受していた。

それほど時間を気にすることなく読書や論文に耽られるのだから、

傍から見れば自由を謳歌しているように映ったかもしれない。

 

僕にとってのモラトリアムな時間は確かにのんびり過ごすことはできたし、楽しかった。

 

でも、何となくあの頃には戻りたくないような気がしないでもない。

こうして否定形を重ねて表現するのだから複雑な心境にいることは確かなのだが、

そう感じるのだから仕方がない。ってやっぱり否定形だが。

 

ブログも更新できなかった、というかしなかったこの1週間はというと、

結婚式やその二次会で大学時代や古巣のチーム先輩後輩とともに杯を乾かし、身近にいながらもあまり話すことのなかった人たちともまた飲んで食ってする時間が多かった。

そのおかげかどうかもわからないが、ふと振り返ってぼけーっと考えてみると、

僕自身が僕という人間を新しい角度から見つめざるを得ない心境に陥っていたような気がする。

 

ロン毛で髭のFBだったと自分でもよく揶揄する大学時代の友達たちは、

ほとんど皆が結婚しているにもかかわらずあの頃と何も変わっていなかった。

10年という月日の中であの頃と何も変わっていないということはあり得ないのだけれど、

それでもあの頃と何も変わっていないとお互いに感じることができるというのは、

今の僕にはまだどのように解釈したらいいのかよくわからない心模様だ。

彼らがあの頃のままなのか、僕の脳みそがあの頃のままなのか。

そんなことを考えれば考えるほどにこんがらがってくる。

 

つい一昨日に古巣の後輩が東京で結婚式を挙げた。

それはそれは盛大な式で、僕がこれまで出席した結婚式の中でもっとも大所帯なものであった。

そこでつい昨年まで一緒にプレーしていた先輩や後輩とテーブルを囲み、

後輩を祝福しながらに感じたのは、

やはりみんなあんまり変わってないなあという印象なのであった。

まあ昨年まで一緒にプレーしていたのだからたった1年間で劇的に変わられても驚いてしまうが。

 

しかし変わった、変わっていないという話を持ち出すと、

もしかすると一番変わったのは僕かもしれないよなあとも思えてきて、

そうやって思ったのは、「僕はもうこのチームの人間ではない」という実感をその結婚式の会場で痛烈に自覚したからであった。

疎外感とか郷愁感とかそういうものではなく、無情にも動き出している時間の中に身を委ねている実感というかなんというか。

抗うことのできない時間の流れにいることを強烈に意識したというかなんというか。

 

とにもかくにも今は大学の研究室にいてカタカタとキーボードを叩いている自分がいる。

そんな紛れもない現実に身を浸す中では、

何が変わってなくて何が変わったかなんてあまり意味のないことのように思えてくる。

容赦なく訪れる日々の時間に身を置いているあいだは決して意識することのない「変化」を、遠い昔の友達たちは俎上の上にそっと差し出す。

そして、目の前にぽつんと置かれたものの答えを僕は探ろうと試みる。

 

うーん、でもそういうことってなんだか面倒に思えてきた。

どうでもええやん。そんなこと。

彼らが変わってようが変わってなかろうが、僕自身が変わってようが変わってなかろうが、

僕にとってはそんなことどうだってええわ。ほんま。

 

お構いなしにやってくる明日が待ち遠しい。

というよりも明日を待たずに過ごす今日が楽しい。なんといっても今が心地よい。

もちろんしんどいことはたーくさんある。

それでもそういう風に感じることができるのは、ちょっと幸せだ。