平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

水泳実習より帰還しました。

この3連休は水泳実習で三重県は二見浦まで行ってきた。

恐ろしいほどに日焼けして帰ってきた。

現役の時もここまで焼けたことがないだろうと言うほどで、クリーニング屋さんのおばちゃんに「うわ!よう焼けたはりますねー」と驚かれた。“うわ!”の言い方が少し引き気味で、それはつまりそれだけ黒いということである。

今日の4限の授業ではただ教室に入っただけで笑いがとれた。

それだけ黒いということである。

肌が黒すぎて笑いがとれるってことを、僕は生まれて初めて知った。

昨年も焼けたとは思っていたが、周りの反応から推測するにどうやら今年の方がえげつないようである。ま、こればかりは仕方がない。ただ、おでこに水泳キャップの跡がくっきり残っていることだけが気がかりではあるが。

僕の日焼けの話はさておき、今年の水泳実習も大きな事故なく無事に終了した。本当によかった。昨年から数えて僕自身2回目の経験だったが、やはりまだまだ要領を得ずに相も変わらず右往左往するしかなかった。指導に関してもそうだし、遠泳に臨む心構えを学生につくらせるという点でもまだまだ甘かった。

何が良くて何が悪かったのか。反省すべきところを反省し、また良かったところはしっかりと評価して、次なるステージに足を踏み出したいと思う。

というような優等生的な意見はほどほどにしておいて、とにかく終わってホッとしたことに暫し安穏としたいのが正直なところである。反省と評価をしないといけないなんて宣ったそばから、そんなことはひとまずおいといてとにかくゆっくりとしたいなんていうのは矛盾も甚だしいところだが、本当にそんな心持ちなのだから仕方がない。

人間というものは・・・というよりも、僕という人間は本当に矛盾の塊ではないかと思うときが結構しょっちゅうある。確実に僕の中には2人以上の人格が混在している。多重人格を認めているわけではない。というよりも多重人格者は、それぞれの人格がひとりの人物として生きているので、自らが多重人格者であることは理解できないはずである。だからおそらく僕はそうではない(というよりもそうであっては困る)。イメージとしては、悪魔と天使が常に背後を飛び回っていて、何かを決断する際にちょっかいを出してくるという、あの感じに近い。悪魔と天使というはっきりとしたキャラクターなら話はそれほど複雑ではないかもしれないが、最近は微妙な意見を挟んでくるキャラクターがいるから、それはそれで大変なのである。

「矛盾の塊」というと、つかみどころがなく周りに心配ばかりかけるような印象を与えるかもしれないが、決してそうではなくて(そうではないことを祈るばかりである)、表現を少し変えると「いつでもどこでも誰にでも通用するであろう規範をもたないように努めようという決意に裏打ちされた曖昧さ」という意味である。何だか余計にややこしくなったかもしれないが、とにかくそういうことである。

とにかくその都度“つくりなおす”。いや、「作り直す」のではなく「創り上げる」というニュアンスに近いかもしれない。まったくのゼロから作り直すのではなくて、「作られたものの上に創り上げていく」という感じである。それは具体的に何をするときなのかと言えば、1回1回の講義でもそうだし、人前で話すときもそうだし、このブログや毎日新聞に書くときもそうである。

おおよそ日常生活のほとんどでこうした態度で生きてみようじゃないかと、いつの頃からか意気込んでしまった。それからというもの、なかなかフワフワとした心模様で毎日を過ごす羽目になり、とにかくその都度創り上げるという意識というのは何のことはない、それは色んな感じ方をする自分自身を認めることに他ならなかったのである。

「カラスは黒だ!」というヒラオさんと、「いやいやよくみると青っぽいでっせ」とニヤリと企む平尾くんと、「はあー、あれが黒に見えるなんてばっかじゃないのー」としか言わないひらお。彼らの意見をまとめて「まあそれぞれに言い分はあるよねー」と冷静でいるためには、今のところ矛盾の塊として自らを設定する方法以外に僕は知らない。

これまでの価値観に基づいて判断する前にとにかく一度踏みとどまって、矛盾の塊のままで目の前の事象を見つめること。その中でみえてくるもの、浮かび上がってくるものが真実なのではないかと、何となくそう思う。しかし、そうした態度を好ましく思わない人もいるわけであって、その態度を見かねた正義の人や確信的に利己的な人からの攻撃をうけることはままにある。それは何とかやり過ごす必要があって、それだけの術を身につける必要があるのだろうが、残念なことに僕にはまだその術が身についていない。今、一番欲しいモノは何かと訊かれたら、迷わず「この術」とリクエストするだろう。という発想自体が、もうすでに「この術」から遠ざかってはいるのだが、そこを突き出せば話がややこしくなるのでこのあたりでさっさと引き上げることにするけれど。

このような「自分の中に矛盾が潜んでいるのではないだろうか」という自己分析は、少なからず誰にでも経験したことがあるのではないかと実は密かに訝しんでいて、だから僕が特別に変わっているという自覚はなくてむしろ普通だと思っているのだが、あまりにわかってくれない人たちに囲まれているとそこらへんの確信にわずかながらの揺れがどうしても生じてしまう。周りにいる人に向けられる「どうしてそんなに確固としてられるのか」という純粋な疑問から逃れられなくなるのである。

「確固たる規範を根付かせること」と「矛盾を内包させたままでいること」。

もしかするとこのふたつのことは相反しないのかもしれないが、そのあたりはまだ上手く書けそうにない。なので、もうしばらくはこのふたつの問題に引き裂かれていようと思う。

ここまで書いたものを読み返してみてわかったのは、

どうやら脳ミソまでも焼けこげているようであるということであった。

さらりと読み流して下さればこれ幸いである。