平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

センター試験が無事に終了、またまた『バガボンド』にあたる。

1週間ぶりの更新である。というより、すっかりと週刊化しているこのブログであるが、それでもたくさんの方の来訪があるようでとても有り難い。2010年になるかならないあたりからアクセス数が跳ね上がっているのはなぜだかよくわからないけれど、以前よりもたくさんの方がここに訪れているのは確かであり、ひたひたと静かに忍び寄る期待を前向きに捉えてこれからも書いていくことにしよう。

センター試験が無事に終了してホッとしている。昨年は2日間ともに試験官を務めたけれど、今年はインフルエンザなどの症状で別室受験を希望する受験者がいた場合の待機要員として任命される。1日目は希望者がおらず、試験場本部でひたすら待ちぼうけ。この調子だと2日目もおそらく待ちぼうけだろうなと高を括っていたら、数学②で1名、理科②で1名が体調不良を訴えて別室受験となった。うち1名は、かなり苦しそうな様子ながらも必死で答案に向かっていて、その姿からはセンター試験なるものが受験生にとってどれだけ重要なのかを実感することしきりであった。

昨年の経験から、英語のリスニングを担当すればどれだけ神経がすり減るのかを知っているので、その時間に別室受験がなかっただけで、もうそれだけで今年は楽をさせてもらったと思っている。担当された先生方、本当にお疲れ様でした。

本当ならばお酒を嗜んだり、趣味を堪能したりする土曜日日曜日の両日を、朝から晩まで神経をすり減らしながら過ごすのはやはりキツイものがある。できることならば自らの研究に力を注いだり、友だちとの時間を楽しんだりしたい。こうした欲望を切り下げて臨むわけだから気分が重くなるのは致し方ないところだが、それでもいざ終わってしまえばそれなりの充実感が得られるのが不思議だ。こうしたことはたぶんボクだけではないだろうと推測されるがどうだろうか。センター試験を迎える前は要項を読み返しながら頭の中でシミュレーションを繰り返し、それに伴う少なくない緊張感を伴いながら気鬱な気分にだってなるのだけれど、終わってしまえばなんだか昂揚してしまうのである。

その達成感にも似た充実感のことを帰りの車の中で考えていたのだけれど、おそらくあの感じは「一体感」なのだろうという一つの答えに行き着いた。なんというか、あの日は普段あまり交流の無い教職員の方々と少なからず言葉を交わすことができるということがあり、お弁当を食べながら「えっ、そうやったんですか!」と自分とあなたとの共通点が見つかったりもする。「もうそんなお歳なんですか!」とエネルギッシュな語り口と見た目からは想像できないほどの年齢に驚いたりもしたし、他学科の先生と話が盛り上がって自らの思考の枠が広がることもあった。忌憚なく話ができるこういう時間って、日常的な流れの中で個人が意識的に作ることはとても困難であって、ある程度の強制的な力が加わらないとなかなか作れるものではない。本来の目的とは違う何かが生まれる、いわゆるセレンディピティに出会える時間や空間は、意識的に作れるようで作れないものだと思う(「移動手段としての新幹線の中で読書が捗ること」と構造的には類似していて、わざわざ読書を捗らせるために新幹線に乗ることなどできるわけがないのである)。

そしてそして、そうした方々とともに一丸となってセンター試験を乗り切ろうという、つまりは一つの目的に向かって皆が力を合わせようとするその行為が、たぶんとても気持ちよいのだろうと思う。ラグビーを引退してからというもの、こういう明らかにわかりやすい目的に向かってチームが一丸となるという経験に飢えているのは事実であり、だからどこか懐かしい感覚が甦ってきたというのも昨日感じた「一体感」の正体なのだろう。たぶん。

とは言え、センター試験が楽しいとは口が裂けても言えるわけではなくて、できることならば、人間が機械にならなければならないああいったことは何が何でも避けたいところである。ただ、同じやるならば楽しくやりたいと願うのはおそらくその場に居合わせた誰もが感じていることで、センター試験そのものの是非を論議するのは別の場にしてとにかく皆で力を合わせて乗り切りましょーやと気持ちを切り替えてみれば、それなりに得られるものもあるし何より疲弊度を減じさせる(それでもやっぱり相当に疲れたのは言うまでもないことだけれども)。

できることならばあのような「一体感」で、あの仕事もこの仕事もやっていきたい。そう願わずにいられないのはやはりボクが本質的にラグビー選手だったことからきているのだろう。ラグビーがボクに教えてくれたのはそういうことに尽くされる。

というセンター試験の合間、1日目が終わり帰宅してすぐに手に取ったのが「バガボンド32巻」。心に強烈な揺さぶりがかけられて、もちろんこれは心地よいものなのだけれど、あまりに毒が強すぎていささかぽわーんとした状態に陥ってしまった。井上雄彦という人間の奥深さはいったいどれほどのものなのだろうと訝しんでみるには十分な内容であり、ボクは、この「バガボンド」は漫画というジャンルに収めて解釈してはいけないし、決して収まるものではないと確信している。それこそこの先何十年、何百年と語り継がれるであろうスケールが感じられて仕方がない。人間に生まれながらに備わっている「攻撃性」を、どのようにすればそれに踊らされることなく客観視することができるのか。人が生きる上で避けては通れないテーマに真っ向から挑み続けているその姿勢と、そこから生み出されつつある一つの物語のあまりの奥行きの深さには思わず卒倒しそうである。ウチダ先生が「バガボンド」をビルドゥングスロマンであると言った意味が、少しわかったような気がする。ありのままの人間を描写する壮大な物語であることに、今はもう微塵も疑う余地がない。

さて帰ろう。