平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「ここではないどこかへの想像力」身体観測第116回目。

 東北・関東地方を襲った未曾有の大地震から2週間が経とうとしている。まるで映画のワンシーンかのような津波からは自然の恐ろしさを痛感し、福島第一原子力発電所で起きた事故からは原子力の危険性について今も考えさせられている。同じ日本列島にいる者として、幸運にも被災を免れた者として、まるで喉元に刃物を突きつけられたかのような戦慄とともにこの大震災とどのように向き合えばよいのかをあの日以来ずっと考え続けている。

 誤解を恐れずに言えば神戸にいる僕にとっては「ここではないどこか」の出来事であるという実感はどうしても否定できない。仕事があり、友人との約束があり、当たり前のようにいつも通りの時間が流れているからである。大地震以前の日常と比べれば多少の自粛モードが漂っているにしても表向きはそう変化していない。だが心の内は違う。まったく違ってしまった。いつもと変わらぬ日々を過ごしながらも心の大部分は「ここではないどこか」に縛られている。直接的にはほとんど何も支援できない自らの無力さに心が痛んでいる。

 この無力感といかにしてつき合うかがとても大切なことではないかと思っている。その重厚感に耐えきれず自分には関係のないことだと切り離してしまえば楽になるかもしれない。また、そのすべてを引き受けるべく日常を投げ出して被災地に赴けば解消されるかもしれない。でもおそらくはこのどちらでも救われない。この両極の間で絶えず揺らぎ続けること。つまり、同胞の悲哀にありったけの想像力を注ぎつつ自らにできることを日常の中から探し出し、日々を笑って過ごす。これが被災を免れた人に求められる振る舞いだろうと思う。

 あくまでも「ここではないどこか」は今いる場所とは地続きである。この実感を手繰り寄せるための想像力は決して手放さない。

 

<11/03/22毎日新聞掲載分>