平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

専門用語とのつき合い方。

先日のツイッターで深く得心したつぶやきがある。読み終えるや否やすぐにリツイートしたのだが、今日はその内容について思ったところを少し書いてみる。

 

 

まずは引用しておく。2014年9月8日に思想家の東浩紀がつぶやいた内容は以下の通りである。

 

 

哲学にしろなんにしろ、まずは基礎語彙の定義を明らかにしてから始めようとか言ってたらなにも理解は進まないのであって、「よくわからないまま専門用語の世界に飛び込んであるとき振り返ると突然わかる」という構造でしか修得はできない。ぼくはやらないけど、これたぶんスポーツの習熟と同じ。

その点でさらに付け加えれば、「ソクラテス無知の知」というのは、要は、専門用語でがちがちになったひとに、ちょっとそれ忘れてリラックスしようよという勧めなのよね。スポーツで中級者に「体を意識するな」と教えるのと同じ(たぶん)。しかし初心者はむろん体を意識しないといけない。

というわけで、少なくとも哲学について言えば、ある段階から先は専門用語を使うのはダメで、いかに日常用語で「自然」に語るかで力量が問われるのだと思うけれど、しかし最初から専門用語なしで哲学やろうとしてもそれはダメで、そこはどんなスポーツでも型があって訓練があるでしょうという話です。

 

 

スポーツの習熟と哲学の思索に共通するところがあるなどとは夢にも思わなかった。というのは半分嘘で、薄々そうではないかと気づいていたのが本音である。

 

 

ラグビー的な動きを習得する上では少なくない反復練習が必要である。同じ動きを何度も繰り返すことにより、次第に身体はその動きができるように中身を変えてゆく。必要な筋肉がつき、神経系統が組み替わり、徐々にではあるが確実に身体は変容する。端から見ればよくも飽きずに同じことができるもんだと思われる向きも多いだろうが、やってる当人からすればそんなことは構いやしない。練習するたびに変容するほど劇的ではないにしても、日々の積み重ねである日とつぜんその瞬間は訪れる。今までできなかったことができるよろこび。その到来を心待ちにしながら繰り返す練習はやはり楽しいものである。

 

 

とはいえ、ただがむしゃらに動きまくればいいものではなく、やはりそこには多少の、いやかなりの「思考」が必要とされるのは言うまでもない。「根性練習」でもある程度までは上達するが、どこかで必ず壁にぶち当たる。ある一定以上のレベルには絶対に到達しない。これは僕が長らくの競技経験の中で確信を得た知見のひとつである。一兵卒二としては一人前になれても将校にはなれないと僕は思う。

 

 

ここで必要となる思考とはいかなるものか。つまり、スポーツの習熟に必要な思考とはどういうものかということだが、端的に言ってそれは「感覚の模索」である。

 

 

哲学では専門用語にあたるのがスポーツでは「感覚」になる。もっと平易にいえば「コツとカン」だ。たとえばパスを放るという動作を習得する場合を想定してみると、大切なポイントは「ハンズアップ」「ワンモーション」「キープスピード」になる。

 

 

「ハンズアップ」は文字通り手を上げるということ。パスは手を伸ばして相手に近いところでキャッチするのが基本で、そのために両手を上げなければならない。ボールが来てから手を出すのではなく、こちらから迎えにいくようにボールを掴む。これができると次の「ワンモーション」ができる。

 

 

ではその「ワンモーション」はなにかというと、一連の動作で放りなさいという指示で、キャッチしたボールをいったん懐に引き込んで、再びパスする際に振りかぶる動作をしてはいけませんよという意味である。つまり理想的なパスは、人がボールに触れてもそのスピードが変わらずに3人、4人とつながることで、そのためにはボールを抱え込む時間をなるべく少なくしなくてはいけない。パスが乱れた場合は仕方がないにしても、胸元にきたパスをササッと捌く技術が、とくにバックスには必要とされる。

 

 

「キープスピード」は読んで時のごとく走る速度を維持すること。パスを受けるからといってスピードを緩めてはいけない。むしろその瞬間にはギアをひとつ上げるのが理想だ。そうしなければ後ろにパスをつなぐたびに後退を余儀なくされる。ラグビーは陣地を稼ぐスポーツだ。パスのたびに後ろに下がってはトライを奪えるわけがない。

 

 

ラグビー経験者ではない人にとってはなんのことかチンプンカンプンかもしれないが、ここではなんとなく雰囲気を掴んでもらえればそれで構わない。

 

 

この3つのラグビー用語は「感覚の名称」である。言い換えれば「ある感覚を名指したもの」だ。「ハンズアップの感覚」、「ワンモーションの感覚」、「キープスピードの感覚」を、選手は反復練習によって身につけなければならない。哲学でいうところの「イデア」や「理性」や「現象学的還元」などの専門用語がおそらくはこれに該当するのではなかろうか。

 

 

これらの感覚を習得するまではこれらの言葉を反芻しなければならない。同時多発的に身体を動かしながらこれらの感覚を習得するために努力する。迷ったときやスランプ時はこれらの言葉に立ち返り、そしてまたグラウンドで反復する。そうして自分の中に「パス」という技術が身についてゆく。

 

 

それなりに練習を重ねればやがて中級者となる。そのときにはもう「ハンズアップ」も「ワンモーション」も「キープスピード」も必要なくなる。という表現は誤解を招くので丁寧に表現すると、意識のなかにおいておく必要がなくなる。つまりそれは感覚としてすでに「身」についているので、わざわざ意識のデスクトップに呼び出さなくてもよいのである。逆に呼び戻してしまうと、言葉面に引っ張られてしまって不自然な動きになりかねない。またその場の情況を無視したプレーを選択しかねない。これがとても厄介なところで、中級レベルに達したあとに基本を大切にし過ぎると伸び悩みの原因になる。

 

 

「少なくとも哲学について言えば、ある段階から先は専門用語を使うのはダメで、いかに日常用語で「自然」に語るかで力量が問われる」と東が指摘している通り、ラグビーにおいてもあるレベルにまで達すれば「ワンモーション」などの感覚を指し示す専門用語にとらわれることなく、情況に応じて「自然」に身体を動かすことが必要になってくる。ときにボールを迎えにいかずともよいし、抱え込んでもスピードを落としても、目の前の情況を突破できればそれでよいわけである。

 

 

ラグビーと哲学の習熟にはどこか似ている部分がある。だから僕は今こうして研究に携われているのであろうし、嬉々として取り組めているのであろう。これまでうまく説明できなかった「両者の類似」が、東浩紀のこの言葉によってストンと腑に落ちたのだった。

 

 

専門用語を使わずに考えを表現することの難しさは相当なもの。どこか上滑りしているかのような実感が伴うし、これまで理解していた内容がどこか朧げになっていくような心細さもある。こんなにも僕の研究は空虚だったっけと、無力感に苛まれるときもある。でもそれは、こういうからくりだ。だから、日常的な語彙で自然に表現しつつも専門書は読み進めなければならないのであって、一冊の本を書き終えた今はしばらく専門書を耽読する日々を過ごしたいと思う今日この頃である。

 

型に戻る、つまり専門用語に立ち戻って、またあれこれ思索をしようと思う。

ラグビー選手だったころを思い出しつつ。