平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

〈フロー体験〉から。

2019年も半分を過ぎた。毎年感じることだけれど、1年間を見通してみると前半は意外なほどあっけなく過ぎ去る。年が明けてから夏休みまでを半分だと思い込んでいるからだろうか。それとも暮れにかけて入試などの仕事が目白押しだからだろうか。いずれにしても前半は時が経つのが驚くほど早い。いつもこの時期はここまでの自らの仕事を振り返って、焦りが生じてくる。

 

「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」という言葉もあるように、この感覚は時代を問わず誰しもが感じているものなのだろう。「1年」に加えて「年度」という区切りがあるから、それとごっちゃになって、7月を過ぎてもまだ「今年」は始まったばかりだという意識が作られるとも考えられる。時間意識ってとことん主観的だなあと、40歳をとうに過ぎた今になっても変わらず僕の意識を形作っている。

 

同じ1時間でも、楽しいことをしているときとそうでないときでは、流れ方が全然違う。楽しいことはすぐに過ぎ去るけれど、やるべきことややらなければならないことに取り組んでいるときは時計の針は遅々として進まない。これが世間的な時間の流れではあるものの、やるべきことややらなければならないことがあまりに山積していると、それをこなしているだけで1日が終わる。そんなときは反対に時間だけが無為に流れてその足りなさに打ちひしがれる。時間というヤツはとても気まぐれである。

 

時間論というのはそのまま幸福論につながる。そう考えるようになったのはチクセントミハイが提唱した〈フロー体験〉を知ってからだ。やらなければならないこととしての仕事や勉学など、それに取り組む大半の人にとって前向きに取り組むことは難しい。仕事や勉学に意義ややりがいを見出した人にとっては、その行為そのものから愉悦を感じられて、自然と〈フロー体験〉になるが、そうでない人は手をつけるまでに時間を浪費してしまい、やり終えるまでに予定していた時間を大幅に超えて、疲労だけが後に残る。となれば、行為そのものに意義ややりがいを見出せるかどうかが問題で、生計を立てるための「好ましくはないがやらなければならない仕事」には、どうしても後ろ向きな姿勢で取り組まざるを得ず、終了後の飲み会や帰宅後の家族との時間だけを楽しみに、そこに至るまでの苦行になる。人生の大半を、後に用意されている楽しみだけを目指して、いやいや取り組むという姿勢をいつのまにか内面化してしまうわけだ。

 

でも、チクセントミハイはそうではないという。たとえ「好ましくはないがやらなければならない仕事」であっても、取り組み方次第ではその行為から愉悦を引き出すことができると言っている。となれば、望まない職種について人生の大半の時間を費やさなければならない人たちには朗報となる。時間の使い方によっては、本人の主観でしかない極度の集中状態(〈フロー体験〉)という幸福を制御できるとするこの考え方は、傾聴に値する。

 

働き方改革が叫ばれて久しいが、それは数値的な時間としての管理だけでなく、あくまでも主観的に感じる愉悦を主題に考えられなければならないのではないか。仕事そのものから愉悦を感じる人もいれば、アフター5に生きがいを感じている人もいる。先月まで放映していた『私、定時で帰ります。』というドラマの、吉高由里子扮する主人公のように、定時で帰るライフスタイルに重きを置くのもよしだし、共演者の向井理のように仕事そのものにやり甲斐を見出したライフスタイルもよしで、大切なのはそれを主体的に選択するということではないだろうか。他人が軽々しく口を出すのをやめる。そうすることで本質的に働き方を見つめ直すことができるだろう。

 

話が逸れたが、要は時間の使い方を考えるってことにもっと積極的になって、仕事や勉学などその取り組み自体への集中度を上げることで、伸び縮みする時間を制御できるのではないだろうか。集中状態を1分でも長く維持する努力こそが働き方改革になり、ひいてはそれがここの人生を輝かせる、つまり幸福へとつながっていく。その鍵が〈フロー体験〉にある。

 

これは理想論も甚だしいとは思うのだけれども、これだけ常識的な考え方が崩れてゆく昨今の社会では「地に足をつけた理想論」が僕には大切だと思われる。こんなことを考えるのは、兎にも角にも日常が忙しすぎるからで、忙しいのはありがたいことなのだと百も承知しつつも、やはり人間には限界があって、それを超えるのだけは是が非でも避けたい。今こそ「ヒューマンスケール」を直視しなければならないと思う。人間的な生活とは、自分にとってどういうものか。チクセントミハイの『フロー体験 喜びの現象学』(世界思想社)を再読してふと思った次第である。