平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

2020年6月16日。

午前中にラグビー部の練習を終えたあと、今までオンライン授業の資料を作成していた。うちの大学では6月に入って部活動が再開されたが、人数の制限や、練習時間や練習頻度を抑えての限定的な活動のみ。「巣ごもり」でなまったからだを取り戻すことと、部員同士が顔を合わせてコミュニケーションを図ることがその目的で、各クラブともゆっくりと始動している。

今日のラグビー部の練習はキック主体で行った。「ラグビー部」という看板を掲げてはいるものの、入部する学生のほとんどが初心者のうちのクラブは、コンタクトプレーを省いたタッチフットボールを中心に行っている。スクラムもモールもしないから、コンタクトプレーが全面的に行われる従来のラグビーほどCoV-2の感染拡大を心配しなくてもいい。とはいえ、タッチフットボールではタックルの代わりが「両手でタッチ」だから、やはり多少のボディコンタクトは避けられない。なるべくなら身体接触は避けたいし、今しばらくはソーシャルディスタンシングを意識したい。

というわけでタッチフットボールはまだお預けとし、キックゲームというものを考案してそれを行った。

部員のなかには緊急事態宣言が発出してから一歩も外に出ていない学生もいて、久しぶりに外気に触れ、目一杯にからだを動かせることにワクワクしていた。別の学生は、練習に参加できることが楽しみで昨夜は寝つきが悪かったらしい。このコロナ禍において、それぞれに思いを抱きながら生活していることがリアルにわかるのと同時に、練習を楽しみにしてくれている学生がこんなにもいるのかと思うと、指導者冥利に尽きる。

うちのクラブは大掛かりなコンペティションには参加せず、一般的にいうところのサークル活動にとどまっているのだが、その活動のなかでも楕円球に触れるよろこびを感じてくれているのが、なによりもうれしい。他校やその選手たちを追いつけ追い越せではなく、タッチフットボールを通じて、自らのからだと向き合いながら競技力の向上を目指し、チームプレイの深まりに楽しさを感じている(と僕は思っている)。

たとえコンペティションをせずともスポーツの楽しみが味わえる、まるで合気道のようなスポーツ活動も、あっていいのではないか。そんな思いから週に1度の練習を組み立てているのだが、その練習を楽しみにしている学生がいるというのは、まことにうれしい限りだ。

今の4年生に、高校は吹奏楽部で、それまでほとんど運動経験がない学生がいる。入部を決意するまでにはそれなりの時間を要したものの、意を決して飛び込んできてくれた。彼女以外は、ラグビーは未経験ながらもその他の競技ではかなりの実績をもつ学生がほとんど。つまり身体能力が高く、とくに同じゴール型競技のバスケットボール経験者は順応性が高い。パスやステップは、ちょっと教えればすぐにそれなりの動きができる。「本気で上を目指さないか」と、つい声をかけたくなる学生もなかにはいる。

そんななかにあっても、元吹奏楽部の学生は懸命に練習をしていた。彼女の特徴は頭での理解力に秀でているところ。高校までスポーツが得意なほかの学生は、オノマトペを使いながらの端的に説明する方が伝わりやすい。だが、この学生には、プレイひとつひとつの目的やその意図を論理的に説明しなければうまく伝わらない。当然のことながら目的や意図を理解したとしてもすぐに上達するわけではない。「頭でわかっていてもからだがついてこない」という状態がしばらく続く。モヤモヤとするこの段階を経て、あるとき突然、上手くなる。その瞬間を逃さずに声をかければ、また次のステージへとモチベーションを高めてゆく。

僕にとって、この学生がこれまで辞めずに続けてくれたことがひとつの自信になっている。意を決して入部を決めてくれたからには、ラグビーのオモシロさと、それを通じてからだを使うことの楽しさと苦しさを教えたい。途中でやめることがないように、腰を据えて教えなければと、ずっと思いながら今日までやってきた。彼女が2年生か3年生のときに将来は小学校の先生になりたいと聞き、それならなおさらラグビー、いやスポーツ、いやからだを育てる本来の「体育」がもつオモシロさを伝えなければと思った。どこまで伝わったのかは本人に訊いてみないとわからないが、少なくとも辞めずに最終学年まで続けてきたことがひとつの答えじゃないかと思っている。

もうひとつ、特筆すべきなのはチームメイトたちである。スポーツ慣れしておらず、飲み込みが早いとは言い難い彼女に、アドバイスをしたり、できたプレーを褒めたりしながら寄り添ってきた。彼女の上達をまるで我がことのようによろこぶ学生もいる。タッチフットボールで試合をするときにも、彼女が同じチームになっても嫌がる学生は一人もいない。元吹奏楽部の彼女がここまでやってこられたのは、いつのときも同じ目線で温かく接する全部員がいたからだ。互いを認め合い、励まし合う。そういう部内の雰囲気を作り続けたからこそ今がある。チーム内でのレギュラー争いもなく、とにかくみんなで上手くなる。それがうちの部の目標なのだ。

次の練習は来週の火曜日か。それまでにまたキックゲームのヴァリエーションを考えよう。



 

2020年6月8日。

ここ数日はすっかり夏空が広がっている。予報によれば今週末から天気が崩れるらしく、間もなく梅雨に入るのだろう。

緊急事態宣言が解除されて以降、徐々にではあるがいつもの日常に戻りつつある。もちろんこれは現実認識として間違っている。ウイルスが消えてなくなったわけではないから、あくまでも「気持ちのうえで」という話だ。日々の生活を営む上で、緊急事態宣言が発出されているときと比べると明らかに僕の心は穏やかである。いつまでもウイルスを怖がってはいられない。経済を立て直すためには努めていつもの生活を取り戻そう。なんだかそういう空気みたいなものが世間には広がりつつあり、その影響を受けての穏やかさなのだと思う。


ちなみに今回パンデミックを引き起こしているウイルスの正式名称は「SARS-CoV-2」で、これに感染したあとの病名が「COVID-19」なのだという。これにしたがい、今後は「SARS」を省略して「CoV-2」と書くことにする(いちいち変換するのが面倒だけれど)。

実際に今もこのCoV-2は私たちの身の回りにいる。どこぞの首長は「夜の街」にウヨウヨいるかのように考えているらしいが、ウイルスなるものは人間を媒介とするからには昼も夜も関係ない。人がいるところにCoV-2ありだ。にもかかわらず緊急事態宣言が解除されるとどことなく開放感が漂い、世間全体の自粛ムードが緩んだ。潮が引くようにさーっと。あくまでも僕の身体実感に過ぎないけれども、実は僕自身の胸のうちもそうで、「宣言の解除」をきっかけにして途端に張り詰めた自粛ムードから少しばかり解き放たれた。心の奥底ではまだ安心できないと頑なに思いつつも、それでもやはり心は軽くなった。

これってつまり、日々を過ごすなんとなくの気分が「お上」の判断によって左右されるということを意味している。CoV-2の感染拡大に関する専門家からの情報を頼りに日々の過ごし方を決めていたつもりで、実のところは「お上」のお告げをその根拠としていたことに驚く。社会心理としての世間の空気ということから考えると、ひとりの人間が自ら情報収集をしたうえでその行動を決定するというのはひじょうに難しい。たとえばマスクの予防効果がそれほど期待できないからといって、マスクを外して外出すればいかような心理的不安が襲うかを想像すれば、その難解さはわかるだろう。

だから大半の人はマスクをつける。本気で感染防止ができるかどうかが問題ではなく、周囲からの冷ややかな目を躱すために余分な心的エネルギーを浪費しないという選択をするわけだ。もちろん僕もその一人だが、でも一つだけ声を大にして言っておきたいことは、何気なく下しているこうした判断に無自覚ではいけないってこと。

人とのつながりの中で生きざるを得ない私たちにとって、社会の空気を感じてそれに従うことはしなければならない。マスクをつけないことで周囲に不安を与えるのなら、たとえ納得がいかなくてもマスクを着用する方が、心身ともに健康で毎日を過ごすことができる。だからといって社会の空気を最優先にし、すべての言動の根拠をそれに求めるとおかしなことになる。ひいては自分を見失うことにもつながる、とも思う。

話は変わるが、6月に入ってからもオンライン授業が絶賛進行中である。資料のみで授業を展開する困難さを感じ、対面のときよりも準備に時間がかかることですっかり疲弊しているのだが、だとしても学生への教育を充実させるのが僕の仕事だからどうにかこうにか手を尽くしている。そのなかで気になっているのが、あまりにも学生たちへのサポートが過ぎるのではないかということ。受講する学生の不公平をなくすために手厚くサポートするのはもちろん必要だが、あまりに手取り足取りの働きかけが続けば主体的に物事を考える構えを学生から奪うことになりはしないだろうか。それを危惧している。その匙加減をいかにして行うかが、オンライン授業による学びの肝だと思いながら、あれこれ工夫を凝らしているわけだが。

日々ストレスを蓄積させながら、それでも真面目に課題に取り組む学生たちに充実した学びをもたらすために、CoV-2の蔓延により突如として出来したオンライン授業のコツを早くつかみたい。そう思いながら今日も丸一日、資料作りに費やしたのであった。

窓の外では太陽が沈みかけている。
さあ晩ご飯にしよう。今日は冷やし中華



2020年5月26日。

朝イチに新入生の学科内オリエンテーションをzoomで行う。例年はアクティビティを伴う泊付きの合宿で親睦を図っていたのだが、今年はオンラインですることに。社会情況がこんなだから、致し方ないとはいえやはり寂しい。

そのあとはオンライン授業の準備に取りかかる。あっというまに時間が経って、気がつけば窓の外が暗くなりかけているし、いつのまにか雨も降っている。

少しでも研究をしようと、授業準備の合間に読み返していたのが野口三千三『原初生命体としての人間 野口体操の理論』(岩波現代文庫)。そこで、今の僕の心境を鋭く突き刺す言葉を見つけたので紹介したい。

「不快感を伴う感覚は一般に集中性・局在性があり、明確・強烈なものが多いし、快感を伴うものはその実感が漠然としていたり、拡散的で曖昧であり、局在感が不明確であることが多い。
 したがって、嫌な好ましくないことばは思い出しやすいが、美しく好ましいことばは思い出しにくいということにもなる。」(261頁)

Twitterなどでは「嫌な好ましくないことば」ばかりが目について仕方がない。僕のタイムラインが実際にそうしたことばで溢れていることは否定できないにしても、不快感に伴う感覚の集中的で局在的な性質もまた影響している。だから今こそ、思い出しにくい「美しく好ましいことば」を手帳に書きつけるなり、メモに書き残すなりしておこうと思う。そしてなるべくTwitterでもそれを発信するように心がけよう。もちろん、政治批判と並行しながら、ね。





 

2020年5月20日。

今日はzoomでのゼミ。学生のリクエストに応えて食をテーマにディスカッションをする。栄養学的に正しい食事を心がけたとしても、太る人もいれば痩せる人もいる。みるみる健康になる人もいれば、そうでもない人もいる。それはなぜかという問いをめぐって話をしたのだが、日々の生活での実感を大切にする学生が多く、すでに本質を掴んでいたようである。「これをを食べれば痩せられる」「この方法で誰もがダイエットに成功する」などという耳あたりのいいフレーズがいかに胡散臭いことかは、肌感覚でわかっていたということだ。

太りやすい、あるいは痩せやすい体質にそれぞれ違いがあることは生活実感でわかっている。でもいざその理由を問われれば答えに窮する。ほとんどの学生は漠然と「体質の違い」としてしか解釈できていない。

では体質とはなにか。遺伝的要素は無視できないにしても、あえて一つ挙げるとすればそれは腸内環境の違いだといえる。

腸内環境は、今日まで生きるなかでの食生活で決まるわけで、腸をはじめとする私たちの消化管は長らくの時間をかけて今の状態になった。腸内細菌の一つである、食物繊維をタンパク質に分解するクロストリジウムの割合も人によって異なる。もしこのクロストリジウムが占める割合が大きければ、野菜中心の食事を心がけても筋肉は維持されるわけで、少食でも筋肉質なからだを保てる人はそうした腸内環境を持っていると考えられる。ユーバクテリウムもタンパク質を合成する腸内細菌で、なんとコイツは尿として体外に排出されるアンモニアを分解する。「捨てるもの」を「栄養素」に変えることから、別名「リサイクル細菌」とも呼ばれるスグレモノである。これら腸内細菌の割合の違いが、体質をかたちづくっているのである。

「食」について考えるとき、つい私たちは「食物」ばかりに意識が向きがちだ。栄養学的な知識をもとに何を食べればよいかに腐心するのだが、それだけでは片手落ちである。つまり「食は「体の側」からも考える必要がある。さらに食事は心を満たすものでもあるからして、好きなもの、おいしいと感じるものを口にすることも大切だ。

「自分にとっての最適な食」こそが心身の健康を保つ。だから栄養素のことを考えすぎたりすることはナンセンスであり、こんなふうに「食の意味」について考え込むこと自体、「幸せな食事」から遠ざかってしまう。病の身ならこんな悠長に構えられないのは言わずもがなだが、ある程度健やかに毎日を過ごせているのであれば、四の五の言わずに体が欲するものを、体が欲するときに食べればいいのである。

というようなことを、ちくま新書から出ている岩田健太郎さんの『食べ物のことはからだに訊け!』を参考に話をしたのであった。

そのあとはランチを挟んで、ラグビー部のzoomミーティング。2ヶ月ぶりに画面を通じて対面した部員たちは、一様にこの自粛生活に飽き飽きとしていた。コマ数の多い1、2年生はオンライン授業にいささか疲れている様子で、対する4年生は授業が少なく暇を持て余している様子であった。今こそじっくり卒業論文に取り掛かれるぞと発破をかけておいたが、果たしてどうなることやら。

週末にはzoomによる哲学カフェで講師を務めるので、その準備を始めようと思っていたのだがもうこんな時間に。オリンピックについて話す予定だから、それに関する書物を再読しつつノートを作るのは明日以降に持ち越して、今日のところは帰路に就くことにしよう。帰りのお供は白井聡『武器としての「資本論」』(東洋経済)。家に着くまでに読み終えたい。

2020年5月14日。

しばらく書いていなかった。手帳やメモ帳に殴り書き程度には日記をつけてはいたのだが、ここには書かなかった。前回の日付けが4月20日だから3週間ほどが経過したわけだが、この間を振り返ると、ここに書かずとも毎日をなんとか機嫌よく過ごせる程度に心が落ち着いていたのではないかと思う。

緊急事態宣言が発出されてしばらくは、「自粛の要請」というねじくれた表現で表される生活を強いられることに苛立ちを隠せなかった。普段なら軽く受け流せるはずの言葉も、妙に意識に引っかかってその都度イライラしてしまう。ウイルスへの感染阻止を気に留めるあまり、いつもより少しだけ緊張度が増した心が勤続疲労を起こしていたのだと思う。Twitterを始めとするSNSでも、仕事関係のメールでのやりとりや妻の一言でも、しばらく時間が経つと苛立った理由を忘れてしまうほど些細なのに、なぜだか苛立ちが尾を引くのである。

漠然としたこのモヤモヤは書くことで解消しよう。そう思い立って、しばらくぶりにここで書くことにしたわけだが、それが功を奏してか、ここにきてどうやらこの「自粛の要請」にも慣れてきたように思う。人間が備える環境への適応能力は実に見事なものだ。

でも、それと同時に、慣れてはいけないとも思う。緊急事態宣言が出てからずっと感じていたあの苛立ちは、人知が及ばないウイルス蔓延だけに致し方ない部分も多いのだが、それだけでなく国策があまりにもお粗末だったことがたぶんに影響していると感じるからだ。

もっと早く外出の規制を行なっていれば自粛期間はもっと短く済んだのではないか。あるいは未だ届いていないマスクの配布をする暇とお金があるのであれば、休業補償を手厚くしかも素早く行うこともできたはずで、然るべき政策を実行していれば僕がずっと感じている不安は今よりももっと小さくて済んだはずだ。

日々の生活をご機嫌に過ごす努力を続けるとともに、社会のありようを冷静に観察する姿勢は手放さずにいたい。ウイルス禍の今だからこそ声を上げなければならない。




2020年4月20日

この土日は家族で過ごす時間を堪能した。散歩ついでに生活必需品の買い物をしたあと、家の中では娘の言いなりになって部屋の中を歩き周り、娘が昼寝をしているあいだに妻と無料配信されているドラマを観た。今年に入ってすぐに放送されていたサスペンス系の「10の秘密」だ。まだ4話目だが、登場人物それぞれの胸にある秘密が連鎖していく様がオモシロい。今夜も娘を寝かしつけたあとに続きを観る気、満々である。

つい先日、観終わったのは「空飛ぶ広報室」。航空自衛隊の広報室を舞台にした有川浩の小説が元になっているこのドラマは、登場人物が時間を経て成長していく様子がオモシロかった。やたらに泣いてしまったのは自粛ムード漂う昨今に心が疲弊していることが大きいのだろう。ドラマの中で可視化される優しさに触れるたびに、いちいち心が反応してしまう。僕はもともと涙もろく、よく感動するたちなのだが、さすがにここまで涙が流れたのは初めてだ。年齢を重ねたこともあるのかもしれないが、やはり心が疲弊しているのだろうと思う。不思議なことに泣けば幾許か気持ちがスッキリする。

「外出自粛」がなければこの2つのドラマを観ることはなかったはずだ。家にいなければならないという情況だからこそ観てみる気になったのであって、そうでなければわざわざ時間を作って観ることはなかっただろう。どこか鬱々とする日常をなんとか乗り切るために観始めたドラマに、想像以上に心が揺さぶられたのは予想外だった。そういえばテレビドラマは10代のころによく観たけれど、20代も半ばを過ぎたころからはまったくといっていいほどチャンネルを合わせなくなった。でも、いいね、やっぱり。映画とは違った趣があって、1話1話を楽しみに、次が待ち遠しくてドキドキする感じがとても懐かしい。

新型コロナウイルスの感染拡大が広がりつつあり、そのことに少なくない不安が広がっている。さらに経済的な落ち込みもまた心配で、行きつけの店を営むあの人やあの人の顔が浮かんで気分は沈む。「二重の不安」が負の螺旋を描いて下降してゆく昨今だから、意図的にそれに抗うための心がけは欠かせない。Twitterに呟いたように「口角を上げる」「好きなものを数える」を実践しているのもその一つで、八方塞がりのこの日常を半ば強引にご機嫌に過ごさないと、正直なところやってられない。

ウイルスの蔓延への不安はどうしようもない。マスクを着用し、手洗いを励行し、「3密」をできる限り回避しながらひたすら天に祈るくらいしかできない。でも経済的な落ち込みへの憂いが引き起こす不安は政治次第でなんとかなる。むしろ今の我が国の政治は、この不安を増大させている。ここには憤りしかない。口角をあげて笑顔を作りながら好きなものを数え、ドラマを楽しみながらも、心の奥底ではこの憤りをずっと抱え続けておかねばと思う。

2020年4月17日。

今日も在宅ワーク

起床後すぐに近所のパン屋さんまで自転車を走らせて、朝食に美味しいパンを食べる。昨年引っ越した自宅近くにはパン屋がたくさんあって、「自転車で10分ほど」の範囲に7、8件ある。もちろん好みがあるからすべてがお気に入りというわけではないのだが、それぞれに特色があって店ごとにおいしいパンが必ずみつかるのがうれしい。

休日に限って天気がよい日に自転車をかっ飛ばして買いに行くのが恒例なのだが、外出を自粛しなければならない今は平日でもそれができるのがうれしい。こんなふうに在宅ワークをすることでもたらされるちょっとした楽しみを、これからもみつけよう。

そういえば朝起きてすぐに以下のツイートをしたのを思い出した。

 

平尾 剛 / 『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)絶賛発売中!
 
@rao_rug
 
自粛疲れをやり過ごすために、今日から「口角を上げる」を意識しよう。シンプルで具体的な工夫が、今は必要だ。目新しいことでもなんでもないけれど、まずはからだから変化させてみることには大きな効果がある。人は誰も笑顔のままで不機嫌になることはできないのだから。
午前9:00 · 2020年4月17日Twitter for iPhone
 
「自粛疲れ」が本格化しつつあり、疲弊した心とからだを癒すこと、またこれ以上疲弊しないようにするためには、なんらかの工夫を積極的に行わないといけないと、昨日のブログに書いた。その工夫の一つがこれである。「口角を上げること」。

あまりにシンプルすぎて拍子抜けする人がいるかもしれないけれど、これは実は理に叶っている。波打つ感情と向き合い、理由や原因などを探って直接的に解決しようとするのではなく、まずはからだを変化させてみる。これに効果があるのは脳科学でも立証されている。たとえばなにか悩みを抱えているときに、ひたすら頭の中で解決策を考えたところで一向に答えが出ない場合が多いはず。考えすぎてドツボにハマったりもする。

そこで、いったん思考から離れるべくからだに意識を向けるわけだ。

悩みごとがあって、その悩みについて考え続けているときはおそらく眉間にシワが寄り、口元が尖っている。「悩んでいる表情」を無意識的に顔は作っている。それを変化させる。無理やりでもいいから笑う、つまり顔面の筋肉に力を入れて「表情を作る」。こうするだけで悩み自体が消し去ることはないのだが、今まさに解決策を探って試行錯誤する自分自身の状態が少しだけポジティブになることで、心が軽くなるというわけだ。

そのお陰か、今日はTwitterでウイルス禍が終息するのは予想以上に見通しが暗いこと、それから「検察庁法改正案の審議」がこのどさくさに紛れて始まるという怒髪天を突くようなニュースを目にしたものの、冷静さを失わずに受け止めることができた。「口角を上げる」以外にも就寝前に行っている腕立てや体幹トレの効果もあるだろうとは思うが、とにもかくにも健やかさを保つには、まずは「からだ」から、だ。